笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

落書き


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 目標へまっすぐに続く道をたどることは、それが最短距離なので一番だと、一般的には考えられています。しかし、ドローイングの文脈では話は別です。まっすぐに道を進む人は、イメージを考え作り出すためのさまざまなやり方をせばめることになってしまいます。


「ドローイング・テクニック」 ピーター・ジェニー/石田友里(訳) フィルムアート社

 

 うちの子どもたちの間でお絵かきがブームだ。一過性のものかと思いきや、この一ヶ月ほど、お風呂をあがってから寝るまでの一時間弱の時間に、夢中になって炭治郎やらすみっコぐらしやらを描いている。
 主に鉛筆と色鉛筆、クレヨンなどで描く。僕がいるときは、水彩絵の具を使わせることもある。妻が義姉にその話をしたら、東京に住む義姉はわざわざ画材屋に寄って本格的な「落書きセット」を送ってくれた。まだ使っていないけど、冬休みのうちに試してみようと子どもと約束した。子どもはガラスに描けるパスを使うのを楽しみにしている。僕はステッドラーの色鉛筆に興味がある。妻は、カーテンや床が汚れるのを心配している。

 僕も、絵はうまくないが落書きは好きだ。子どもの頃は教科書の余白や自由帳にガンダムや棒人間を描きまくった。今でも時々、百均で小さなスケッチブックを買ってきて簡単なデッサンをしたりイラストを描いたりすることがある。
 先だって、本棚を整理していたら、数年前に使ったスケッチブックが出てきて、僕の下手くそな絵でびっしりと埋められていた。落書きにつかったスケッチブックは使い終わると捨ててしまうのが習慣だから、何かの本と一緒に本棚にしまい込んでしまったのかもしれない。普段、何の落書きをしたかなんていちいち覚えていないけど、スケッチブックを見返してみると「ああそういや、こんなの描いたな」と記憶のフィルムが巻き戻る。懐かしかった。

 落書きで思い出すのは、長女が生まれる直前に描いたスヌーピーの絵だ。
 妻が出産のために入院する数日前に描いた。初めての出産と入院を不安がる妻のために描いたのだった。なぜスヌーピーかというと、妻は昔からスヌーピーが好きでぬいぐるみを集めていて、本当はそのコレクションの中からひとつ持たせたかったのだけど、衛生上の理由で病院に断られてしまったので、僕が描いて渡したのだ。
 ほんの落書きのつもりで描いたが、妻は喜んでくれた。
 妻は無事に出産し、母子ともに健康で、予定通りに退院することになった。絵は持ち帰るはずだった。しかし、荷物をまとめている最中に、据え付けのテーブルと壁の隙間に絵が落ちて取れなくなってしまった。そういう訳で僕の描いたスヌーピーの絵は僕の家にはなく、今も病室のテーブルと壁の隙間で妊婦たちの安産を祈り続けている。まあ、まずい絵だから大して御利益はないかもしれないけど。
 絵がテーブルと壁の隙間に落ちたとき、妻は泣いた。「また描くよ」と僕は約束した。スヌーピーはまだ描いていないけど、落書きは時々している。ここのところ絵とはご無沙汰していたが、子どもがよく描くようになったので、僕もまた一緒に楽しんでいる。妻と僕は、子どもの描いた棒人間を見て毎日笑っている。子どもの絵はいい。僕のスヌーピーの絵よりよっぽどいい。パウル・クレーが憧れたわけが、よく分かる。

 世の中の流れはペーパーレス化だ。ノートも教科書もデジタルになってしまったら、子どもはどこに落書きすればいいんだろう。あんまに何でも紙でやりとりするのも、もう時代にはそぐわないのだろうけど、ヘノヘノモヘジをひとつ描けるぐらいの余白はなくさないでほしいな。お絵かきに夢中な我が子たちを見て、僕はそんな風に思う。