笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

子どもたちにとって”art”は自由か?/「13歳からのアート思考」を読んでみた

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 VUCAとは「Volatility = 変動」「Uncertainty = 不確実」「Complexity = 複雑」「Ambiguity = 曖昧」の4つの語の頭文字を取った造語で、あらゆる変化の幅も速さも方向もバラバラで、世界の見通しがきかなくなったということを意味しています。
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 世界が変化するたびに、その都度「新たな正解」を見つけていくのは、もはや不可能ですし、無意味でもあるのです。

「13歳からのアート思考」 末永幸歩 ダイヤモンド社

 

 僕の娘は絵を描くのが好きだ。ダイソーで買ってきてストックしてあるスケッチブックは、半月からひと月に一冊消費する。与えたスケッチブックは、たちまちカラフルな線で埋まり、余白のなくなったページは引きちぎられ、最後には食べ終えた魚の骨と皮のようなリングと表紙だけが残る。
 そういう娘の姿を見て、僕は娘の成長を感じる。娘は、以前はそうではなかった。どちらかというと、自分で描くよりは、僕や妻に絵を描かせて、それをながめることを好んだ。「描けばいいのに」と励ましても、「私が描くと下手だから」と首をふるばかりだった。
 彼女のなかで、どんな変化があったのは分からない。だけど、彼女の手がペンをふるうことのつっかえになっていた何かが取り除かれたことは確かなようだ。彼女はもう、「私が描くと下手だから」と言って僕にペンを差し出してくることはない。「一緒に描こうよ」とか「お父さんも描いてみて」と誘われることはあるけど。

 先だって本屋に寄ったときに、黄色い表紙の本が平積みにされていて、その色が鮮やかであり、また爆弾のようでもあったので、手に取ってみた。へえ、「13歳からのアート思考」だって? 13歳といえば、中学一年生。そういや娘が、中学にあがったら美術部に入りたいなんて言ってたっけな、などということを思い出し、手に取ってみた。
 著者の主張を僕なりにまとめると、「アートの可能性を狭めているのは硬直した先入観である。それは鑑賞者とクリエイターの両方を拘束し、『アート』というものを檻の中に閉じ込めて不自由なものにしてしまっている。だから、様々なアーティストの作品と深い対話を重ねることによって、自分の中にある先入観を打ち壊そう。そして、もっと芸術を楽しんだり、自分なりの表現に自信をもったりしよう。」ということだろうか。
 この主張に僕は同意する。解釈がクリエイターの意図を無視してひとりよがりになるのは回避しなければならないけど、提示者と鑑賞者が作品を通して誠実に対話するならば、どのような表現も解釈も自由であると僕は思う。

 よく考えなければならないのは、この本のキモはタイトルが「13歳からの~」と銘打たれている点であり、それはどういうことかというと、この本の主張のスタート地点が「中学生になると美術(図工)をつまらないと感じる子どもがめっちゃ増える」という問題にある、ってことだ。
 中学校になると、学校での美術の成績が、その後の人生にある程度のウェイトでのしかかってくるという現実に子どもたちは直面する。小学校だって図工には評価がつくのだけど、小学生は受験をしなくても中学校に進学できるし、私立を受験するにしたって図工の成績まで問題にされることは少ない。しかし中学生は、美術でもそれなりの成績をとっておかないと、進学先の選択肢が確実に狭くなってしまう。故に、美術の成績、即ち自分の作品の評価というものを気にしないわけにはいかなる。で、もしいい成績をもらおうとするならば、「自分が何を表現したいか」はちょっと保留しておいて、まずは「先生はどのような基準で自分の作品を評価するのか、自分はどのような基準で作品を制作するのか」を優先せざるをえない。
 このような環境に、表現の自由があるだろうか?

 いや、あのね、ないってことはない。というかむしろ、実際のアートの制作現場でだって、アーティストは何らかの基準や限界に束縛されながら制作をしていることだろう。だけど、必ずしも美術表現に対して熱心ではない一介の中学生が教室の中で、自分の未来に不安を覚えながら制作に取り組んで、果たして自由を感じられるだろうか。それを求めるのは、ちょっと酷じゃない? ほんの一握りの、そういうことを理解して制作を楽しめる頭のいい子どもや、求められたものを求められた通りに制作できるセンスに恵まれた子どもは、別にいい。でも、そうじゃない大多数の子どもはきっと、「自由に!」と言われたって、そのだだっ広いオープンさに戸惑うだけだろう。そして、呆然と荒野の真ん中に立ち尽くし、途方に暮れてしまうだろう。しかも、自分の制作に対してどのような評価がかえってくるのかという不安に怯えながら。だったら「道をちゃんと示して」ってことになるんだろうけど、そうなったらもう、自由じゃないよね。

 そして、図工や美術の作品って大抵、教室や廊下に飾られるじゃない? でさ、自分が表現したいことを、自分が得意な手段で表現して、自信をもって公表できるならともかく、自分が描きたいものを描いたわけでもないし、いつも自信をもって人に見せられる制作を成功させられるわけでもないのに、問答無用で人目に晒されるってのはやっぱり、恥の感覚に対して敏感になってくる十代の子どもにとっては苦痛である場合もあるでしょ? しかも「こりゃ失敗だー」と頭をかかえた作品に点数がつけられて、そのスコアを友だちと比較されるとなれば、好きでいられるわけないよね。
 美術だけじゃなくて音楽もそうだけど、こういう表現系の教科の在り方って、もうちょっとどうにかできないのだろうか。「学習⇔評価」を往復するというドグマをもつ学校現場で取り上げる以上は仕方ないのだろうけど、それこそもうちょっと自由に、既存のパラダイムに縛られずに学習と評価の在り方を検討した方がいいんじゃないかな。

 とにかく。
 僕の娘は絵を描くのが大好きで、その上物語を書くことも大好きで、自分の大好きなことに熱心に取り組む熱意と自信をもっているので、その熱意と自信が失われないままに成長して欲しいと僕は願っている。学校さんには、そのための支援をぜひお願いしたいな。