笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

「清潔で、とても明るいところ」再読。

f:id:sekimogura:20230923215414j:image

 

「何にします?」バーテンが訊いた。
「無(ナダ)」
「オトロ・ロコ・マス(また気の触れたやつがきた)」バーテンは言って、背中を向けた。

ヘミングウェイ全短編2」 ヘミングウェイ/高見浩(訳) 新潮社

 

 高校生の頃、ヘミングウェイをよく読んだ。もっとも頻繁に読んだのは「老人と海」だったが、96年に新潮社の刊行した短編集も好きだった。今読み返すと、アメリカ文学のベーシックな知識のない高校生が理解するにはちょっと難解な話だと感じる。でも当時は、作品のまとっている雰囲気が好きで、度々読んでいた。
 ヘミングウェイは、打ちのめされた男を上手に描く。全盛期を過ぎ、過去にしがみつこうとしつつも、かなわず、滑り落ちていく男。そびえ立つプライドを、音高く打ち砕かれて倒れていく男。生き恥の重荷に耐えながら静かに死を待つ男。ヘミングウェイの描くのはそういう男たちだ。そして、その苦しむ姿、諦めた背中を描くこと自体によって、また時には、膝を抱えて座るその背中に優しく毛布をかけてやることによって、小さな慰めを与える。
 それらを、ヘミングウェイは愛情をもって描いていると、僕は感じる。そのヘミングウェイの、寡黙な優しさが、知らず知らずのうちに、若かった僕の心を捉えていたのかもしれない。

 この短編集の中でとりわけ好きだった作品のうちのひとつが、「清潔で、とても明るいところ」である。とても短い作品だ。短編集の2巻の、23ページから始まって31ページでおわる。
 短いから好きだった、というのもあるかもしれない。高校生だった僕は、学校の行き帰りの電車で読書することが多かったから、降車駅が近づいてきた時に「最後に何読もうかな」と思った時に読むのに、短い作品は最適だから。内容も簡潔。深夜営業の清潔なカフェで、若いウェイターが客の老人を追い返すのを、年上のウェイターが批判する。それだけ。しかし、この作品は僕にとってなぜか印象深く、時々ふっと思い出されることがあるのだ。
 この作品には「わかりあえない寂しさ」と「わかっても何も手助けできない無力感」が描かれている、と今の僕は思う。そして、何もできないからこそ、静かに見守る優しさと。ヘミングウェイはこの短い作品に、よくこれだけのことを詰め込んだな、とひたすら感心するのだけど、年上のウェイターの感じている孤独感と無力感が、とにかく胸を打つ。誰にもぜひ読んで欲しい作品である。

 一方で、どうだろう、この作品が漂わせる静けさに共感できる読者が、一体どれくらいいるのかな、という不安も覚える。まあ、自らヘミングウェイの作品を手に取るような読者なら共感してもらえるだろうとは信じているのだけど、そうではない人の目に、この作品はどう映るのだろうか。
 表現とは、無理解との戦いだ。
 何かを世界に向けて発進する時、理解されないのではないか、根拠のない批判をうけるのではないか、誤解されるのではないか、という恐怖が、常につきまとう。表現者はその恐怖をふりはらい、作品を世に放つ。理解し、賞賛してくれる者はいるだろうかと恐怖しながら。理解者は、いるかもしれないし、いないかもしれない。もしいたとしても、作品はその人の目に触れるだろうか。触れたとして、正しく理解されるだろうか。それは分からない。だから、作品の発表は賭けだ。賭けに負ければ、人目にふれずに枯れていく花のように、作品もしぼんでしまう。
 故に僕は、すべての表現者を、彼の生み出した何かを世に放ったというその行為のために、尊敬する。仮にその作品が、僕の心を動かさなかったとしても、だ。

 それはともかく、このようにしてこの作品が残っているということは、ヘミングウェイが広く読まれ、理解され、今も愛されているからだろう。そしてもちろん、僕は今でも、ヘミングウェイの作品が大好きだ。
 去年、久しぶりに「老人と海」を手に取って読み返し、今度はこの短編集を開いてみたわけだけど、やっぱり若い時よりも読書の解像度みたいなものは上がっているし、自分の感じ方も変わっている。それは、歳のせいでもあるし、病気のせいでもあるだろう。作中でヘミングウェイは限定していないが、年上のウェイターは、僕ぐらいの年齢なんじゃないかな。つまり、人生の分水嶺を、少し越えたところにいるような年齢。そして、カフェを追い返された老人には十分な財産と若い家族がいるようだが、ウェイターは金持ちではなさそうだし、家族や友人がいそうな雰囲気でもない。まさに、「無(ナダ)」。
 年上のウェイターは、老人のような人には明るくて清潔なカフェが必要なのだと主張するが、実は、そういう場所を一番必要としているのは、彼自身なのではないだろうか。明るくて清潔なカフェ・・・孤独感にも、無力感にも、彼を苦しめる何にも悩まされることなく、静かに時が過ぎていくのを待つ、そういう場所を、本当は彼こそが必要としている。僕はそのように想像する。そして、僕にもそのような場所があれば、と期待する。

 僕には、幸い、家族がある。気のおけない友もいる。あたたかい音楽仲間もいるし、辛うじて仕事もある。しかし、すべては無常である。いつも、いつまでも、それらが僕のそばにある保証はない。それを思うと、急に不安になることがある。そして、何かが失われた時、新しくそれに代わるものを獲得する力や若さ、そして自信は、もうない。特に、病気をしてからそう感じる。
 その不安自体は、決して消すことはできない。僕はもう、若さを取り戻すことはできないのだから。不安は、足もとの影のように、消すことができないだけでなく、いつもつきまとう。不安は、常に僕を苦しめる。でも、消すことはできないにしても、ほんの少しの間、それを忘れることができれば、またもう少し頑張れるんじゃないか、とか、体制を立て直して立ち向かえるんじゃないか、と期待する。そういうことが出来る場所が、きっとこの作品の中におけるカフェなのだ。

 今の僕に、そういう場所があるだろうか。以前はあった。横浜にいた頃、仕事帰りに大桟橋に寄って、コスモクロックを遠くに眺めながら1時間ほどぼんやりするのが僕は好きだった。しかし、神戸に帰ってきて、今そういう場所や時間が僕にあるかと考えたら、ちょっと見当たらない。神戸は何だか、どこも騒がしくて、狭くて、だめだ。あんなふうに、何もかも忘れて海風の肌触りを楽しむことのできる場所がない。
 ああでも、だからこそ、そういう場所を僕はちゃんと見つけないといけないのかもしれない。不安も自信も、理解も無理解も、そういうのを全部保留にして、霧笛に耳を澄ますことのできる、場所と時間が。

 つい数日前まで、体調がすごくよかったのだけど、また唐突に、薬が効かないほどの倦怠感に襲われている。横浜が恋しい。