笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

ジャズは、好きに演ればいい。

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 ジャズが好きだ。中学生の頃に聞き始めたクラシックに、今でもどっぷりはまっている僕だけど、実はジャズも好きで、それなりに勉強もした。

 高校生の時に初めて買ったディスクは、ダイアナ・クラール。クラールは後にグラミーを獲るのだけど、その頃はまだ獲る前だったと記憶している。三宮のセンター街のビブレにあったタワレコで買ったんだっけ。試聴台で聴いて、世界にはこういう音楽もあるのかとひどく感動し、そのまま一枚手に取ってカウンターに運んだのを覚えている。
 ジャズの生演奏を初めて聴いたのは、それよりもうちょっと後で、BALビルの地下にあったバージンレコードでたまたま行き会った、Black Bottom BrassBandのインストアライブ。基本、クラシックの世界で生きてきた僕には、ずいぶん刺激的だったなあ。距離感の近さにもびっくりしたのを覚えている。

 当時はまだ、音楽の供給メディアがCD中心だった時代で、新しい音楽を聴くためには、お店に足を運びCDを購入する必要があった。大学生になってアルバイトの収入ができた頃は、月に1万円くらい買ってたっけ。輸入盤の廉価なものであれば、メジャーレーベルでも一枚1000~2000円くらいで買えたので、1万円だと4、5枚買えた。その内訳が、クラシック3、4枚に対して、ジャズ1、2枚って感じだった。
 お店の棚に「必聴盤!」みたいなポップが貼ってあるディスクを中心に買って聴いていた。マイルス・デイヴィスジョン・コルトレーン、ハービー・マン、リー・モーガンアート・ブレイキービル・エヴァンス・・・誰がどういうバンドにいて、どういうスタイルで、みたいなことは全然分からなかったけど、まあやっぱり、バップが中心だったかな。音楽的な内容は、当時は全然分かってなかった。何となく「ジャズって、雰囲気いいじゃん」ぐらいの感覚で聴いていたと思う。

 当時すでにジャズは、「難しい音楽」、「マニアの音楽」、「詩んだ音楽」という風潮だった気がする。確かにジャズ(特に50~60年代)は、歌謡曲やロックに比べると、複雑で、難解で、時々、どこか哲学的な雰囲気を感じさせるところがあるよね。聴いている人も、なんかこう、薄暗いジャズ喫茶で煮詰まった苦いコーヒーを舐めながら、アルテックのどでかいスピーカーにかじりついて何時間も粘ってる、みたいなイメージあるし。
 しかし、その一方で、オシャレな古着屋さんとかカフェでは有線のジャズが流れていて、適切な距離感をもって接すればとても感じのいい音楽、という印象もあった。僕はどっちかというと、こっちの方。

 でもね、僕は子どもの頃、機械モノはとりあえず分解してみたくて仕方がないという子どもだったのだけど、ある時、「このジャズって音楽はどういう仕組みになってるんだろう?」っていうのが気になって仕方なくなった。つまり、ジャズってやつを分解してみたい! って思ったわけだ。
 どうも、アドリブというやつをやるらしい、ということぐらいは分かっていた。しかし、どのような原理に沿って、どのような手段でアドリブを行うのだろう、ということは知らなかった。ただ、コードという和声をあらわす記号に従って演奏するようだ、ということはうっすら分かっていて、とりあえずこの、コードというやつから調べてみようか、と僕は考えた。
 まあね、調べればコードの何たるかぐらいは分かりましたよ。だけど、そのコード上でどのようにアドリブが展開できるのかってのが、全然分からなかった。いくら調べても分からなかった。そういうのを解説した本はもちろん何冊も出版されていて、何冊も、何度も読んだのだけど、トランスクライブされたアドリブとコードの対応関係が全然わからない。
 ダイアトニック、ペンタトニック、コードトーン、アベイラブルスケール、アボイドノート、Ⅱm7-Ⅴ7-Ⅰ・・・そういうのが全部分かってきて、「ああそうか、ここの音はこういう理由で使用可能だと判断されたワケね」っていうのが理解できて、やっと、いにしえのジャズマンのアドリブのトランスクライブがアナライズできるようになりました。独学で、片手間でやるには、なかなかヘビーな学習でした。ここまでくるのに、10年かかったよ。

 本当は、よく知ってる人に尋ねてみればよかったのかもしれない。いや、実際、ジャズの勉強がしたいってジャズスクールに通ったこともあったんです。でもね、分かんなかったんだよなー、習っても習っても、全然。
 ところで、ジャズのアドリブの基本理念は「好きに演(や)ればいい」だ。
 僕はプロの先生のところへ通って、サックスの指導もうけつつ、ジャズの理論のことも教わったことがあったわけだが、その先生に「アドリブがやりたいのですが、どのように演奏すればいいでしょう?」と尋ねたら、この「好きに演ればいい」が答えとして帰ってきた。いやいや、好きに演ればって、そんなワケないでしょ? 適当に演奏したらハマらない音ばっかりになるじゃないですか。まあ確かに、ジャズはハマらない音がたくさん使われているけど、でもそういうのもちゃんとカッコよく響く、ワザがあるでしょ、きっと。それを教えて下さいよ。
 まあね、今はそう答える理由が分かる。そしてもし今、僕も人に同じ事を尋ねられたら、「好きに演ればいい」という答えを返すだろう。けどね、その「好きに演ればいい」の理由が分からないジャズの初学者には、「は?」って感じだよね。
 でも・・・じゃあそこんところを、誰にでも・・・つまり、ジャズの世界の玄関口に今立ったばかりの初学者にでも・・・分かるように、簡潔かつ正確に説明することが、僕にできるかと言われたら、それは無理なんだよなあ。多分、誰にもできないだろう。だから、僕の先生も説明せずに、ただジャズのアドリブの基本理念である「好きに演ればいい」だけを言った。なぜ先生がそう言ったか、今は分かる。これが最も簡潔で、限りなく正確な表現だからだ。そして、この言葉の意味を理解するには、生徒である僕が、ある程度成長する必要があった。そういうことだ。

 問題は、好きに演奏した結果のアドリブが、カッコいいかどうかだ。カッコよければ、理論上はどうであれ、そのアドリブは正解なのだし、いくら理論上正しくても、ダサければ、いいアドリブとはいえない。従って、ジャズを学ぶ者が獲得するべき能力とは、「こう演ればカッコいい」という感覚を身につけることと、その自分の感覚に従ったメソッドを作り上げること、そして「これカッコいいでしょ!」とオーディエンスにアピールする説得力なのだろう。

 で、そういうことが理解できた時点から、さらに10年。僕にとってカッコいいアドリブは何なのか、ということは、実はまだよく分からない。マイルスもコルトレーンもカッコいいけど、トランスクライブされた楽譜を僕が吹いてみても、同じようにカッコいいという風には感じない。聴いてる分にはいいんだけどなあ、なんでだろ? でもきっと、自分の中で消化しきれていなかったり、自分の演奏として演る覚悟ができてなかったりするからなんだろうな。

 ここのところ、慢性疲労症候群の症状は落ち着いている。涼しくなったせいかもしれない。この、理解力の減退が一段落している時期に、そういう小難しいことの理解をちょっと進めてもいいかもなあ。久しぶりにジャズの勉強もやってみよう。
 そんなことを考えながら迎える、今年の秋。