笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

ベンジャミン・バントン 数奇な人生

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 厳しい表情で父親を睨んだあとで、ロスコーは顔をそらした・・・。

 

『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』 フィッツジェラルド/永山篤一(訳) 角川文庫

 

 ブラッド・ピット主演の映画が日本で公開されたのが2009年のことだそうだ。僕はこの映画を見た。映画館で見たのか、後からテレビやDVDで見たのかは思い出せない。しかし、見たことは確かだ。もの悲しい話だったが、いい映画であったように記憶している。青年にまで若返ったベンジャミンが物思いに沈んだような表情でオートバイを駆るシーンに、強烈な孤独感が漂っていて、印象的だった。

 映画を見た後に、『グレート・ギャッツビー』の作者であるフィッツジェラルドの作品だと知って、そのうちに原作も読んでみたいとずっと思っていた。できれば手元に置いておきたかったので、買うつもりでいたのだけど、本屋に寄ったタイミングでは別の本に手が伸びてしまったり、古本屋に寄った時はいいコンディションの個体に出会えなかったりして、入手するチャンスをのがしてばかりいた。しかし、先だってやっと、ブックオフできれいな文庫本を見つけることができたので、ついに手に入れて読んだ。

 たくさんの作品を読んだわけではないが、フィッツジェラルドの書く物語は、いつも悲しい。孤独感との静かな戦いが、どの作品にも描かれている。無垢の、社会からの拒絶と無理解と、そのために強いられる孤独感というのは、アメリカ文学のなかに一つの流れを形成しているテーマだ。フィッツジェラルドも、その細く長いクリークのような流れのなかに静かに沈むひとりだろう。

 ヨーロッパ文学に比べて、アメリカ文学はナイーヴだ。僕はそのように感じる。ヘミングウェイボネガットカポーティもケルアックもサリンジャーも、そしてもちろんフィッツジェラルドも、どこか少年っぽさをのこした大人の悲しさを語る文学というイメージがある。
 僕は、その弱さを愛する。アメリカの老いた少年には、マッチョを気取っていても、心の中に幼さを残していて、女の子の痛烈な一言で思わず涙ぐんでしまうような脆さがある。ヨーロッパの文学には、それがない。あったとしても、その弱さは通過儀礼を経て解消されてしまう。しかしアメリカ文学には、最後まで幼さを抱えたまま死んでいくような、成長しきらない感じが残される傾向がある。それが、息苦しくもどかしく、しかしどうしようもなく愛おしい。

 ベンジャミン・バトンも、老人として生まれた瞬間からどこか、少年めいたナイーブさを漂わせているように感じられた。そして、ベンジャミン自身には何の非もないにもかかわらず、その得意な生まれと育ちのせいで、ただひたすらに疎外されつづける。人生の中盤、実年齢と肉体の状態にほとんど差がない期間だけは比較的、幸せだったように描かれているが、それ以外では、社会からも、家族からも疎まれる人生。ベンジャミンが生きるのは、そういう一生だ。
 ベンジャミンは、生涯を通してひどい扱いをうけ続けるのに、不思議と、刃向かわない。強烈な否定と疎外に対して、反抗するよりは受け入れ、挑戦するよりは諦めている。もちろん、不満は表明するのだが、要求をのんでもらえなくても、意地になったり逃げ出したりしない。刃向かっても無駄なのだと思っているのかもしれない。あるいは、「僕が相手の立場だったら、きっと同じようにするだろう」と理解できてしまっているのかもしれない。
 そういう、「納得したわけじゃないけど、仕方ないよな」っていう、悔しさと諦めと愛情がマーブル状に混ざっている感覚が、たまらない。

 世界に、どれくらいの割合で、こんな風に疎外感を感じながら生きている人がいるのだろう。そう少なくないからこそ、20世紀のアメリカ文学は今日も読み継がれているのだろうことは想像できる。すると、僕は、疎外する側の人間だろうか、疎外される側の人間だろうか。四十数年も生きていれば理由もなくひどい扱いを受けることもあって、そんなときは疎外感を感じるけど、案外、意識せずに誰かを傷つけていることもあるかもしれない。その時は、相手を落ち込ませるようなことを言っている意識はない。でも、後から思い返して、あんなことを言うべきではなかった、あんな態度をとるべきではなかったと、反省することも度々だ。
 誰かを傷つけなければ生きていけないことが人間の本性なのだとしたら、とてもつらいことだ。でもきっとそうなんだろう。僕たちはウニみたいなもの。表面はトゲトゲしていて、意図しなくても、相手に近づけば、刺すし、刺される。そして、内側のやわらかい部分から血を流し、これはお前のせいだと互いに責め合う。傷つけてしまうのは、仕方がない。だから、せめて責め合うことはやめて、なぐさめの言葉をかけてやるべきなんだろう。その役を、フィッツジェラルドは「グレート・ギャッツビー」でニックに託し、サリンジャーは「ライ麦」でフィービーに託した。
 しかし、その役目を果たす人が、ベンジャミンにいただろうか。生まれたばかりの頃に、話し相手になった祖父の他には、いなかったんじゃないだろうか。そう思うと、実に悲しい。この物語は、実に悲しい。