笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

暗記は嫌い。

 

 小学生の娘が、学校で百人一首のカルタを授業でやっているらしい。へえ、今は小学校でやるんだね。僕は中学生の時に、学校で覚えさせられた記憶がある。全然、覚えられなかった。暗記、苦手なんだよなあ。百人一首は、当然、百首あるわけだけど、当時の僕が覚えられたのは五首くらい。
 今も、目にすればそれが百人一首の短歌だってことくらいは識別できるが、そらで言えるのは、やっぱり五首ぐらいかもしれない。
 だいたい、百人一首なんて覚えて何になるんだ? 子どもの頃、そう思っていた。今は、もうちょっと覚えておけばよかったと後悔しているけど、でもやっぱり、覚えていたってそれが役に立つかどうかっていうことで言えば、やっぱり何にもならないような気もする。
 子どもだった頃、今では役に立たない色々なものを覚えさせられた。数学の公式とか、歴史の年号とか。それが役立つ職業に就いた人には、それを記憶していることは大切だったろう。しかし、そうではない人の方が圧倒的に多いのではないだろうか。

 このデジタル時代にあって、経験や知識を詳細に記憶しておくことは、さほど重要なことではないように思う。もちろん、全く意味がないと言っているわけではない。引き出したい情報を検索するためにはキーワードが必要なのだから、それを思い出すための教育的経験は大事にするべきだろう。しかし、今日重要なのは、情報そのものよりも、「それって調べれば分かるんじゃないの?」という情報の存在を直感する力や、「こういう風に検索をすればたどりつけるんじゃない?」のような情報へアプローチするための手がかりを集める力、「これって本当に信じられる?」と手に入れた情報の真偽を確かめる検証能力などだろう。世間ではこういうのを、情報リテラシーと呼ぶらしい。
 暗記が苦手な僕には、「調べれば分かることは、調べればいい」っていう世の中は大歓迎だ。きっと、そう思っている人は他にも多いだろう。そして、だんだんに、情報そのものよりは情報リテラシーを身につけていることの方が重要視される世界になっていくのだろう。
 僕たちは今、とんでもない時代の転換点に生きているんじゃないかな。少し前までの時代は、物知りな老人が「生き字引」なんて呼ばれて重宝された。でも、そういう時代は多分もう終わる。「生き字引」から吸い上げられた情報が、オンラインの巨大なサーバにストックされ、関連する情報と紐付けられながら管理されるようになれば、情報をオフラインで紐付けもなく保持していることには何の意味もなくなる。これからは間違いなく、そういう世界になるに違いない。

 すると、今の学校教育で、百人一首を暗記することにはどんな意味や価値があるのだろうか。暗記は必要ないんじゃないかな。伝統文化に触れる、というような意味ではいいかもしれないけど。それよりはむしろ、約千年の時を超えて伝わってきた歌を通して当時の人々の心情に触れることの方が意味あるんじゃないかな。
 娘に、「この歌の意味、分かる?」と尋ねたら、「知らない。でも、読み札がこの言葉で始まったら、とるのはこの札」と返事が返ってきた。うーん、まあ、それでもいいけどね。