笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

ドライブ・マイ・カー

 

 ・・・「何もかも失うとわかっているんだったら、そういう状況に自分をおいちゃいかんのだ。失うような立場に身をおくべきじゃない。失うはずのないものを、見つけなきゃいかん」
 実に腹立たしげに、いまいましげに言う。しゃべっている間、彼はまっすぐ前方を睨んでいた。
「でも、必ず失うとは限らないでしょう?」
「いや、失うんだ」・・・

ヘミングウェイ全短編集1』 高見浩(訳) 新潮文庫

 

 去年だったか、それとももう一昨年の話になるのだったか、映画「ドライブ・マイ・カー」がカンヌ国際映画祭で賞をもらって話題になった。原作は村上春樹さんだそうだ。申し訳ないのだけど、映画にあまり詳しくないので、それがどれくらいすごいことなのかはピンとこない。でも、話題になっていたし、しばらく村上春樹さんの作品を読んでいなかったので、久しぶりに読んでみようと思った。
 受賞から一年くらい経ってから、「そろそろ古本の値段も下がってきたかな?」とブックオフを覗いてみた。しかし、まだ定価の八割くらいの値段で店頭にならんでいたので、今は買い時ではないと判断し、図書館で予約をした。図書館の予約も数百件の待ち予約があって、なかなか僕の手元に届かなかったのだが、予約してから半年ほどしてやっと、僕の番がまわってきた。

 僕が最後に読んだ村上春樹さんのオリジナル作品が多分、「色彩をもたない田崎つくると、彼の巡礼の年」で、その後にサリンジャーフィッツジェラルドの翻訳を手に入れている。騎士団長は読んでいない。で、「女のいない男たち」を読んで・・・ああなんか、これはもうほとんど、サリンジャーとかフィッツジェラルドのスタイルだなあ、と思った。
 ヘミングウェイの「男だけの世界(MEN WITHOUT WOMEN)」への意識があったように書かれているが、なんて言うか、やっぱりサリンジャーだよね、村上さんって・・・。言葉の選び方とか、意識の表層やポップアップしてくる感情までは描くけど、その奧にある深層の意識はあえて触れないで読者にゆだねるところとか、ヘミングウェイもそういうところあるけど、ヘミングウェイっていうよりは、サリンジャーって感じがする。ああそうだな、書き方やスタイルっていうより、あえて描かない部分が何なのか、っていうのが、サリンジャー的なのかもしれない。あるいは、両方混じって、その割合がヘミングウェイサリンジャー=3:7みたいな。

 

 ・・・「シビル」と、彼は言った「こうしよう。これからバナナフィッシュをつかまえるんだ。やってみようよ」
「何をつかまえる?」
「バナナフィッシュさ」と、彼は言った。

 

ナイン・ストーリーズ』 J.D.サリンジャー野崎孝(訳) 新潮文庫

 

 だから、「ドライブ・マイ・カー」を読んでも、ヘミングウェイ的な悲しさや恐怖が奧の表層に来ているけど、なんかねー、そのさらに奧にサリンジャー的なナイーブさが透けている。いや本当は、その両者は表裏一体なのかもしれなかったり、どちらをどれくらい見せるのかっていうバランスの問題だったり、書いてみたらそう見えるようになってしまったっていうだけのことだったり、色々あるんだろうけど、まあとにかく、僕はそう感じる。
 人間の奥底には、どうしても言語化できない粘着質の流動体のような感情があって、サリンジャー村上春樹さんは、目を閉じたままそこに触れ、あえて言葉にすることを回避しながら物語の力でそこの手触りを描こうとしているんじゃないだろうか。そのためには、「言葉ではじかに触れない」という、言語化欲求に逆らう意思が必要だ。難しいことだと思う。
 だからやっぱり、サリンジャーや村上さんはすげぇな、と感心する。近頃、文豪と呼ばれる人、名人といわれる人と、自分との距離感が、いったいどれくらいのものなのか、なんとか感触としてとらえられるようになってきた。以前は、その距離がただただ遠くて、遠いがためにかえって「案外近いんじゃないか?」なんて勘違いもしていたけど、やっと相手を射程にとらえて、その上で「まだ遠いな」っていうぐらいの理解には達した。そりゃあね、教科書に名前が載るような人は大したもんです。当たり前だけど。

 村上春樹さんのような作品を書く人って、日本の作家さんでは、他に思いつかない。文体もそうだし、表現の中身もそう。個人的には、堀江敏幸さん(「雪沼とその周辺」)なんかちょっと近いものを感じる。でも、少ないよね、こういう作品を書く人。現代の日本では、描きたいものが明確に言語化できるような作品じゃないと、受け入れられないのかなあ。でもさ、言葉にしてしまったら本質が損なわれてしまうようなものだってあるじゃん? 村上さんとか堀江さんって、そういうものを、連想ゲーム的に描出するチャレンジをしているような気がする。
 だから、読み終わった後に、なんだかスッキリしないモヤモヤが残るのだけど、すっきりハッキリしたら手のひらの上に落ちた雪の結晶のように形が消えてしまうからそれでいいんだってことを、詠み手も了解していないといけないんだよね、彼らの作品に触れる時は。確かに、「わかった!」っていうカタルシスのない、焦れったい読後感は、人によっては不快なんだろうけど、ふわっとした着地でしか表現できないものだってあるのだってことを、僕たちも知っていていいと思う。