笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

「そして、バトンはわたされた」を読みました。

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 吹奏楽部を教えに中学校に行っている。
 夏頃だったか、3年生の子がミーティングの始まるのを待つ時間に席で文庫本を読んでいて、「それ、何?」って訊いたら緑色の表紙を見せてくれた。それが、瀬尾まいこさんの『そして、バトンはわたされた』だった。
 先だって書いた村上春樹さんの「ドライブ・マイ・カー(文庫本のタイトルは、女のいない男たち)」同様、古本がまだ高かったので図書館で予約をいれた。それが先だって僕の手元に届き、ようやく読むことができた。

 新しい本もなるべく読みたいし、読むようにこころがけているのだけど、自分の興味の方向性や読書の連続性からいって、僕の読書はどうしても古典が多くなる。届いた文庫本を見て、それなりの厚さがあり、これは3、4日かかるなあと覚悟したのだけど、新しい本は古典と違ってさらさら読める。1日で読めた。
 話はそれるが、短く早く読めるってことが、いいとかわるいとかってこととは関係ない。文芸作品って、色々な軸で評価できるから、人によって解釈や評価が分かれるし、それが面白さでもあるけど、さらさら読めるようなのは大した作品じゃないなんていうのは間違いだ。そういう言い方をするのは、作品に接する態度として不誠実すぎる、と僕は近頃思っている。
 さて、それはちょっと脇において本筋に戻ると、幸せなお話だなあ、というのが最初の感想。こういう話を読むと、人間の善意を信じたくなる。僕はもう、無条件に性善説を信じられる年齢ではないが、それでもまだ、人間には善なる部分がちゃんと備わっていて、きちんと条件さえ整えば善なる部分の力を発動できるはずだと思うくらいには人間のことを信じている。先だっての県庁の人みたいに。

 こういう作品に、中学生ぐらいの頃に親しむのは、とてもいいことだ。ちゃんと楽しくて、それなりに読み応えのある作品に触れ、読書の面白さを知るのは素晴らしい経験だろう。僕も、もうちょっと、こういう平和に楽しい作品に触れておけばよかったなあ。あ、ディスっているのではありません。ただ、中高生の頃に触れた作品というのが、部活の先輩と仲間の影響で、えらく偏っていたので、そう思っただけ。
 僕の中学生の頃に読んだ作品といえば、田中芳樹と、村上龍。もうね、ひたすらこの二人だった。田中芳樹さんの作品だと、「銀河英雄伝説」「アルスラーン戦記」で、村上龍さんの方は、「コインロッカー・ベイビーズ」とか「限りなく透明に近いブルー」。世界観がさ、ひたすらディストピアなんだよね、僕が読んでいた本って。で、そこから入っていって、高校ではヘミングウェイ谷崎潤一郎をよく読んでたな。後は色々と、雑多に。ああ、今振り返っても、ひねくれた読書歴だ。
 でも、何を読んでいたかは別にして、ただもうひたすら読んでたなあ。高校時代は、勉強は全然しなくて、本読んでるか、楽器吹いているかのどっちかしかしないって生活だった。学校から押しつけられた「ソフィーの世界」だとかヘッセの「車輪の下」だとかは全然読む気がしなくて、とにかく本屋に何時間でも粘って、気に入った本だけを買って読んでいた。懐かしい。

 本を好きになるには、とにかく好きな本だけを、好きなだけ読むに限る。他に方法はない。他のことはともかく本だけは、好きなように、好きなだけ読ませてもらえたことは、家族に感謝している。
 でもなあ、やっぱりもうちょっと、平和な本を読んでおくべきだったなあ。ひねくれた読書歴をもつ僕は、どうしたってひねくれ者だ。20世紀末の本で、中学生の健全な育成にふさわしい本って、何かあっただろうか? 同級生の健全な友人は、村上春樹を読んでいたような気がする。あの頃僕は、村上春樹さんの作品に全然興味がもてなくて、一度もちゃんと読まなかった。やっぱり読んでおくべきだっただろうか。読んでおくべきだったのかもしれない。三十歳過ぎてから読んだけど。

 僕の娘がもう何年もしないうちに中学生になる。彼女には、僕が読んだような本ではなくて、もうちょっと健康で信じられる話を読んで欲しいな。たとえば、「そして、バトンはわたされた」みたいな。モンゴメリの「赤毛のアン」なんかもいいだろう。親としては、そういう本を読んで欲しい。
 まあ、それでも。自分の人生において、どのような本を読み、何を感じるかは、個人に委ねられるべきだということも知っている。彼女が村上龍を読もうが、あるいはブラッドペリだとかカフカだとかバタイユだとかを読むことになったとしても、それはそれで、拒否したり批判したりするつもりはない。好きな本を、好きなだけ、好きなように読めばいい。でも、あえてひとつ願うことが許されるなら、とにかく楽しんで読んでほしいな。僕としては、もうそれだけ、それだけでいい。