笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

「雪沼とその周辺」再読。

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 ぼんやりと空を眺めて赤く焼けかけた雲の筋に視線を合わせ、こんな色に染まるのはひさしぶりだなと思っていると、いきなり、青みをおびた大きな生きものが突風にあおられるように宙に投げ出されて一気に舞いあがり、たちまち見えなくなった。

「雪沼とその周辺」 堀江敏幸 新潮文庫

 

 村上春樹さんの「ドライブ・マイ・カー」を読んだ時に、ふと、堀江敏幸さんの「雪沼とその周辺」を読んだ時の感覚がよみがえって、何年かぶりに読みたくなった。

 このふたりの作品を読んで感じるのは、「距離」だ。距離にも色々あるけれど、ここでいう距離は、「時間的な距離」や「親密さの距離」である。特に「雪沼とその周辺」では、不意の出来事をきっかけに過去と現在の時間的距離が突然ショートカットされるような描写が多くあり、縮めたリボンの両端が輪になってくっつくように、相対性理論的なタイムリープ感が演出されている。そして、その演出によって読者は、想い出の中の雪沼という土地のリアリティを、原色とモノクロームの、両方のビジョンとして見ることができる。

 僕たちは時々、過去を思い出す。
 何度でも体験したいような栄光に満ちた過去もあれば、どちらかと言えばもう思い出したくないような種類の過去もあるだろう。しかし、過去なるもののすべてに共通することは、今はもう体験することも触れることもできない、という点だ。いくら真剣に思ってみたとしても、過去そのものにはもう触れられない。なのに、過去の方は突然、今ここという地点に顔をのぞかせ、僕たちを驚かせることがある。そして僕たちは時々、そのことに悲しんだり苦しんだり胸を締め付けられたりすることがある。過去とは、そういうものだ。
 ポップアップしてくる問題が、今まさに関わっていることについての事柄であれば、今という地点を歩いている僕たちは自分の手で問題を解決することができる。しかし、その問題が一旦自分の目先を離れて過去のものになってしまうと、事柄を構成するあちこちの関節が硬直してしまって、今からではもうどうすることもできなくなる。やっかいなのは、その問題に関わっていたその時には「これでいいや」と放置したどこかの関節が、後になって痛みを訴えてくる場合だ。その時にはもう、関節は固着してしまっていて、今からではどうにもできない。
 過去についての、問題そのものについては、今という地点からはもう手を施せないわけだ。だから、くるしくてにがい過去については、できれば墓に入るまで、触れずに遠ざけておきたい。でも過去の方では僕たちのことを放っておいてはくれなくて、道ばたを歩いている時に電信柱の影からひょっこり顔を出してあいさつしてきたり、ビルの屋上で広告塔になっていて、電車の窓から見えることにふと気づいてしまったりする。
 そういう時、僕たちは何らかの形で過去に落とし前をつけなくてはならない。気持ちのおとしどころを考えなくてはならない。

 僕たちは様々な理由で傷つき、その傷によって苦しめられる。その原因はいくつもあるだろうけど、そのうちの一つに疎外感がある、と僕は思う。
 疎外感というのは、低温ヤケドのように、傷つけられてるまさにその瞬間にはあまり痛まないのに、後になって長い時間じわじわと痛みを発し、僕たちを困らせる。社会を形成して生きることを本能とする僕たちホモサピエンスは、自らの形成した社会からはじき出されてしまうということが時々あって、そんなとき僕たちは疎外感に苦しめられるのだ。社会は、近寄れば近寄るほど遠く、遠ざかれば遠ざかるほど冷ややかに振る舞う。
 社会、という言葉の指すものがなんであるかというその実態は、具体的であることも抽象的であることもあるだろうけど、つまりは人であり、人の集合体であり、そことのつながりである。私たちが病むのは、そのつながりの部分だ。つながりそのものを病んでいるのだから、疎外感を癒やすものはつながりではない。
 では、疎外感を軽減するのは一体何だろう。それは・・・ほどほどの距離感なんじゃないかなと、村上さんや堀江さんの作品に触れた時に感じた。ここで深く言及することはしないが、村松栄子さんの『至高聖所(アバトーン)』からも同じ事を感じる。
 人間は時として、棘皮生物のように振る舞う。近寄り過ぎたウニ同士が、その棘によってお互いを刺激してしまうように、近すぎる距離は、図らずも他人と自分を傷つける。そういう状況に陥ると、近づくことは傷つけることと同義で、傷を労るために寄り添おうとしているにもかかわらず、かえって痛みを生じるというパラドクスが生じてしまう。そして、「痛い、痛い」と叫ぶほどに、より深くお互いを傷つけ合う。

 そういう時には、やはり距離をとることが必要だ。物理的な距離をおくこともそうだし、時間的な距離をおく、すなわち待つ、ということも大事だろう。このとき、どのように距離をとるか、ということは問題ではない。大切なのは、離れた距離そのものであり、待った時間そのものである。

 

 ・・・でもね、いいかい、一度しか言わないからよく聞いておいておくれよ。

 僕は・君たちが・好きだ。

 あと10年も経って、この番組や僕のかけたレコードや、そして僕のことをまだ覚えていてくれたら、僕のいま言ったことを思いだしてくれ。

風の歌を聴け』 村上春樹 講談社文庫

 

 時として僕たちは、仲のいい身近な誰かよりも、遠いところにいる見知らぬ誰かに、より理解されたり、より癒やされたりする経験をもつ。その相手は、小説の書き手だったり、不意の訪問者だったり、石だったり、ラジオのDJだったりする。身近な人ほど理解してくれなくて、全く知り合いでも何でもない人の方が寄り添ってくれると感じるのは、理にかなわず、また無礼でもあるように感じるけど、でも確かにそう思う時があるのだ。むしろ、両者の間に広がる時間と空間のために、かえって癒やしは深い。
 人間というのは不思議な存在だ。慰めようと近寄るほどに相手を傷つけてしまい、かえって遠い誰かの方がよほど傷を労ってくれるとは。しかし、それは真実だろう。
 村上さんや堀江さんが描こうとしているのは、そういうことなんじゃないかな。