笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

市役所


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 言葉、そして文体が連れて行ってくれるところがある。用意された物語というよりは、そうやってたどり着いた先に展開があり出来事があり人物がある。

 

「好きの因数分解」 最果タヒ リトルモア

 

 本を読むのが好きで、今までに読んだ本の数は数千冊になるに違いない。子どものころは、小遣い握りしめて本屋に行き、厳選して買った本を何度も何度も何度も読み返すのが僕の読書スタイルだったが、読書量が増えて読みたい本を買い切れなくなり、図書館で借りるという技を覚えてからは、公立図書館から拝借した本をとっかえひっかえ濫読するようになった。週に一度は子どもと一緒に行って、そのたびに数冊から十冊(十冊が借りられる数の上限)の本を持ち帰る。一年間に少なくとも二百冊ぐらいは読むんじゃないだろうか。子どものころは自分の気持ちにフィットする作品ばかり読んでいて、自ずと読む本の書き手も固定されていたけれど、今は多少自分の考えや気持ちにそぐわない書き手の作品もたくさん読む。そして、世の中には実に色々な文体で語る人がいるのだなあと知った。
 文体、と一言に言い、言ったその瞬間にはなんとなく分かっているけれど、よくよく考えてみるとその実体は得体が知れない。気になって辞書で調べてみると、「ことばづかいから見た文章の体裁。文章の特色をなす言語の様式(日本国語大辞典第二版 小学館)」とある。そうか、体裁とか様式のことなのか。しかし、戦後のある時期以降に書かれた文章は、体裁も様式も大きく変わらない。なのに僕は、町田康西加奈子の文体が違うことをほとんど瞬間的に知覚できる。不思議だ。不思議だが、しかしある書き手ともう一人の書き手の文章には、同じ内容を書いていてもやはり差があり、読み手である僕たちはその違いを文体の違いとして感じることがちゃんとできる。
 文体とは、声のようなものであろう。印刷物としての文字に音響的な意味での個性などあろうはずもないのだが、例えば川上未映子の小説を読むときには川上未映子の声を聴いているような感覚を覚える。一度も肉声を聴いたことのない書き手の文章であっても、それはおこる。そして、不意にテレビなんかにその書き手が出ているのを見て声を聴いたときに、「ああやっぱり、こういう声で、こんな風にしゃべるんだ」と納得することがある。
 神戸に最果タヒという詩人がいることを、つい最近知った。
 今、神戸の市役所は、旧館が工事中だ。その目隠しの外壁にはグラフィティが施されているのだけど、そのグラフィティが最果タヒの詩のインスタレーションになったと最近知った。ずいぶん前に追加されたらしいのだが、転職したり体調不良に襲われていたので、全然知らなかった。最果タヒ? なんて読むの? サイカタヒ? サイ・・・ハテ?
 人気の詩人さんらしく、図書館で予約をいれてもすぐには手元にこない。やっと来たと思ったら、詩集ではなく、エッセイ集みたいな本が最初に届いた。
 読んでみて、あれ、この人知り合い? とまず思った。古い友人の話し方に、すごく似ている。全体には関西弁ではないところに、ちょいちょい関西弁がまじる文体。東京出身だけど人生の半分以上を関西ですごしている友人が、ちょうどそんな話し方をするのだ。一体何者かと思いながらエッセイを読んでいるとベースを弾くらしい・・・やっぱり知り合いか? ただ、生まれ年があわない。僕の知り合いは同級生で、最果さんは半回りぐらい年下。やっぱり違う人か。いや、でもなあ・・・似てる。
 もちろん、他人のそら似なのだ。理屈ではわかる。僕の友人に詩作の仕事や趣味があると聞いたこともないし。でも、いったんそんな風に感じてしまうと、エッセイ集のおしゃべりする声はもう友人にしか聞こえない。
 しばらく前にその友人と茶を飲んだときに、彼女はこんなことを行った。
「四十過ぎて今、二十代を生きなおしている気がする」
 彼女は僕と同い年なのだけど、実はその時、僕も全く同じことを感じていた。
 二十歳になって一応制度上の成人を迎え、しばらくしてから就職したあの頃、何だかそれまでの人生がリセットされて、もう一度新しい別の人生を一から始めなおすような気分でいた。子ども時代の終焉と、成人時代の始まり。そして今、不惑の年齢を過ぎて、成人時代の前半が終わって、その後半戦を改めて開始するような気分でいる。
 友人の人生についてはここで語らないが、僕自身、転職をきっかけにすべてをゼロからやりなおす気持ちなのだ。そして、二十代の後悔を挽回する野望を燃やしている。仕事も、人生も、何もかも。
 読書することについても、後悔がある。二十代はほとんど本を読まなかった。三十代は古典ばかり読んでいた。だから四十代は、今書かれている文学、今語られている物語や詩を読みたい。今誰かが綴っている言葉を、今聞きたい。四十を過ぎた僕は、そんなことを願っている。

 雨の多かった夏の晴れ間に、仕事で使うタッチペンを買いに三宮に出たついでに、市役所のあたりまで足をのばした。二十六年前に震災でぺしゃんこになった市役所の旧館は完全になくなっていて、その周囲を白い壁が覆っている。その白い壁には、カラフルな言葉が踊っていた。レコードの溝を針がトレースするように言葉をたどってみると、言葉が音響になって響き出す。他のいつでもない、どこでもない、今ここで響いている言葉だ。茶を飲みながら語り合う友人の言葉のような。
 文字の語りかけてくる声は、やっぱり友人の声音に似ている。友人の声はややハスキーなメゾソプラノ。聞いていて心地よい声だ。最果さんの声も、そんな声音なのだろうか。そんなことを考えながら、僕は脳内で鳴り響く詩の声に、耳をかたむけたい。


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