笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

村上春樹は、ジャズである。

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 サチは毎晩、88個の象牙色と黒の鍵盤の前に座り、おおむね自動的に指を動かす。そのあいだはほかのことは何も考えない。ただ音の響きだけが意識を通り過ぎていく。こちら側の戸口から入ってきて、向こう側の戸口から出ていく。・・・

「ハナレイ・ベイ」 村上春樹「東京綺譚集」より 新潮文庫

 

 一般に、私たちが「ジャズ」と言った時に想像する音楽は、テーマとアドリブから構成されるコンボの演奏だろう。人によっては、ビッグバンドであるかもしれない。しかし、それにしたって結局は、テーマとアドリブ・ソロ(と、リフ)から成り立っていることに変わりはないのだから、規模の違いはあれ、根本的な差はないと言える。
 そう、アドリブ。
 アドリブ(あるいはインプロビゼーション)を抜きにして、ジャズは語れない。テーマをどう演奏するかというのも、もちろん大事ではあるが、僕たちが聴衆としてライブハウスを訪れる時、プレイヤーの演奏の何を楽しみにして足を運ぶかといえば、やっぱりテーマよりはアドリブの内容なんじゃないかな。
 いやあ、もちろん音楽は好きに聴けばいい。テーマをどう味付けするかを楽しみにしてライブハウスに向かう人がいたって、全然構わない。ただ、まあ・・・テーマがどうアレンジ、またはフェイクされているかということも含めて、アドリブやインプロだと考えると、ジャズという音楽はまるっと全部、アドリブであるとも言える。そして、ソロをとるプレイヤーを中心として、バンドがどんなアンサンブルを展開していくのか・・・その緊張感こそがコンボの醍醐味であり、今日のジャズなる音楽の楽しみ方だろうと僕は思う。

 で、アドリブなどと言うと、奏者が好き勝手に演奏するというイメージを抱かれるかもしれないが、ただ単にめちゃくちゃに演奏しただけではもちろん、クリエイティヴな音楽とは言えない。そこには従うべき一定のルールというか、音楽に一貫性をあたえる法則というか、要は最低限の取り決めのようなものがきちんと存在する。
 その取り決めも、いくつかあるのだけど、複数の人間が「せーの」で始めた音楽を、一斉に「ちゃんちゃん」と終わらせるためには、少なくとも曲のフォーマットを守る必要がある。つまり、トラディショナルなスタンダードピースであれば基本、コーラスのフォーマットが存在し、テーマとアドリブでは共通して、その繰り返されるコーラスの長さやコード進行を守るのが基本だ。
 例えば、「Autumn Leaves(枯葉)」、ジャズを学ぶ者の間では「枯葉1000回」などと言われる基本中の基本とされる曲だが、この曲のコーラスは32小節でできている。平行調であるBb-Majorとg-minorが交互に出てくるコード進行。シンプルで、多少ミスっても所詮平行調が繰り返されるだけなので目立たない。しかしそれ故に、ロストしやすい側面もあるのだけど、終わる直前にクリシェのコード進行がはさまれているので、バッキングにまわっているプレイヤーが優しい人たちなら助けてもらえるという、初心者にうってつけの曲である。

 「枯葉」が初心者向けかどうかはともかく、ジャズの演奏においてソロをとるプレイヤーは、コードの流れを読み取りながら、ワンコーラス32小節のアドリブを行う。適当に演奏するわけではないのだ。しかし、逆の言い方をすれば、最低限のルールを守りさえすれば何をしてもいい、とも言える。最悪、32小節のリピートを間違えさえしなければ、致命的な事態には陥らない。
 ちなみに僕は、大学生の頃、ジャズのことなど大して知らないくせにジャズ研のライブに飛び入りし、この「枯葉」で撃沈させられている。勇敢さと無謀さは別のものだと思い知った、苦い経験だった。まあそれはどうでもいいことなんだけど、とにかく、ジャズにおいては、アドリブといえども、最低限のきまりがあるわけだ。
 そう、最低限・・・曲の長さと、コードの流れ、その着地点さえ大きくズレなければ、ジャズのアドリブは可能である。ただし、「枯葉」でいえばワンコーラスを16小節で終わってはいけない。ワンコーラスは32小節と決まっている。フォーバーズしたってサビ戻りしたって、ワンコーラスは32小節。で、着地点のコードはGm。Dbmではダメ。そういうことだ。

 そして、小説においても同じ事がいえると、近頃の僕は感じている。
 小説? 小節の間違いじゃなくて? いやいや、小説ですよ、ノベルの方の、小説。

 ジャズとの関連がよく語られる小説家の代表として、村上春樹さんを挙げることができると思うのだが、最近、彼の短編を読んでいて、これはジャズなんじゃないか? という感想・・・というか、彼自身がジャズのように書くと言っていたような記憶があるので、実感と言った方がいいか・・・をもった。
 つまり、僕が村上春樹さんの小説を読んで、「どんな風にして書いているんだろう?」と考える時、最初から構想をきっちりたてて書いているというよりは、おおまかなコンセプトをたてた後には、物語として最低限守らなければならないルールだけは意識しつつ、しかし基本的には極めて自由に記述しているのではないか、と思ったのだ。もちろん、これは僕の予想にすぎないし、長編においてはある程度、大きな骨格を念頭において製作しているだろう。しかし、少なくとも短編においては、必ずしも精密な設計を予め行うようなことはせずに、人物や状況の動きをなるべく妨げないことを意識の中心に据えているように感じる。あるいは、そのように読者に感じさせることを大切に、執筆を行っているのかもしれない。

 なので、彼の物語には少なからず、ジャズにおける「手クセ」のような言葉やシーンが現れる。
 食事のシーンや性的な描写がたびたび登場するのは、村上春樹ファンなら誰でも知っていることだと思うが(僕は、ファンと名乗れるほど彼の作品を愛してはいないけど。あ、尊敬はしています)、あれって、ジャズのプレイヤーが「つい弾いてしまう」手クセみたいなものなんじゃないかな。会話の流し方もそう。いわゆる、村上春樹らしい登場人物の、村上春樹らしい会話の流れってあると思うんだけど、ああいう人物の造形や会話のフローもきっと、村上春樹の手クセだよね。
 そういうのが、他の小説家の作品にないのか、あるいはそう感じることはないのか、と言われたら、そんなこともないのだけど、村上春樹さんの作品からは特に強く感じるなあ。
 例えば、女性:「結局、あなたは○○するのね。まるで□□のように」男性:「その通り。そしてその後には△△するのさ、□□のように」みたいなやりとりの、○○などの部分は作品によって違うけれど、この会話のフォーマットはシーンの終わりによく登場する。これって、ジャズのアドリブにおいて、曲や調(キー)が違っても、このコード上では何となくこのフレーズをを演奏しちゃう、みたいな手クセに似ていると僕は思うのだ。
 手クセって、悪く言われがちだし、プレイヤー自身も手クセが出ると「やべェまた弾いちまった」となるわけだが、僕は別に嫌じゃない。むしろ、手クセってそのプレイヤーのトレードマークみたいなものでもあるし、聴衆はある意味、その手クセを聴きに来ているともいえる。すると、その手クセをどこでどんな風に出すのか、っていうことが問題になってくるわけで、その使い方が面白ければ、全然問題はない。だから、村上作品のことを僕は決して嫌いではなくて、それなりの数を読んでいる。そして、村上作品は実にジャズっぽいと感じるのだ。

 しかし、そういや近頃、村上春樹さんの作品読んでないなあ。少し前に新作も出版されたと言うし、また読みたいな。

 ちなみに今は、メルヴィルの「白鯨」を読んでいる。アメリカ文学における古典中の古典のひとつだ。高校生ぐらいの時に一度手に取り、その時は挫折している。以来、いつか読み通してやろうと心に決めていたのだが、ついに僕は「白鯨」の表紙に手を掛けた。僕はもう、10代の若造ではない。今回は必ず読み通せる。その自信がある。
 慢性疲労症候群のおかげで、自信をもってできることがほとんどなくなってしまった僕だが、ブレインフォグの症状さえ出ていなければ、読書は問題ない。そのことを今、とても有り難いことだと感じる。