笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

シューベルトのアーティキュレーションとフレージングは不思議。

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わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
 ・・・

春と修羅 序」 新潮文庫宮沢賢治詩集」より 天沢退二郎(編)

 

 先だって、オケの演奏会があり、久しぶりに交響曲のトップを吹かせてもらった。曲はシューベルトの未完成交響曲。美しい曲だ。完成とは何か、この曲を聴くたびに考えてしまう。お定まりのフォーマットを全うするだけが完成ではないことだけは確かだ。未完成は、間違いなく、完成している。3楽章のスケッチも残っているようだが・・・蛇足だな。でも、4楽章までそろうと、また違ってくるのかもしれない。
 しかし、難しい曲だった。これ、難曲だね。譜面ヅラはたいしたことない感じがするのだけど、やってみると非常に難しい。
 ひとつは、必要とされる演奏精度が、非常に高いため。もちろん、どんな曲だって高い精度での演奏を目指すべきなのだけど、多少荒く仕上げてもそれなりに聴けるという曲があるのも事実。しかし、シューベルトは荒く仕上げると、全然サマにならない。そういうところは、ちょっとモーツァルトに似ている感じもする。ただ、なんだろう、精度に気を遣うべきポイントは、モーツァルトとはまた違うよね。
 以前、「ベートーヴェンの音楽はとてもデジタルだ」という主旨で書いたことがあったような気がするのだけど、シューベルトにも同じデジタルさが必要だと感じた。でもねー、一見、デジタルじゃないんだよね、シューベルトって。そこが、さらに難しいポイントだわ。ここをうまく説明するのは難しい。なんて言えばいいかな・・・ベートーヴェンは、音楽の構造がデジタルさを要求しているのに対し、シューベルトは表現の内容がデジタルさを要求している、と書けばいいだろうか。
 たとえば、1楽章に木管ビオラシンコペーションで刻むモチーフがあるのだけど、あのモチーフって、張り詰めた緊張感を表現するために存在するのだと僕は考えている。曲の構造としては、8分音符ベースだし、上で鳴っているメロディは実に穏やかなので、多少正確な位置からズレて裏打ちを演奏しても深刻な問題ないと考えてしまいそうになるが、その通りにゆらいでしまうと、シューベルトが求めている緊張感を表現できなくなってしまうのだ。
 未完成交響曲では、表面上の平穏と、その背景にある張り詰めた空気のコントラストが音楽の命である。

 そしてもうひとつ、メロディにおいて、そのメロディがもつリズミックな構造が要求するグルーピングの関係と記譜上のアーティキュレーションのズレが、シューベルトの、世界の表面上の平穏さと、その世界のうちにあって葛藤したり緊張したりしているシューベルトの心象世界との軋轢を表現していて、これをその通りに表現することがとても難しいと僕は感じる。
 これは、聴いているだけでは中々わからなくて、しかし、譜面を見て演奏するとだんだんわかってくるのだけど、楽節の継ぎ目にあって本来アウフタクトとして処理するべきであろう音が、前のフレーズにスラーでとりこまれている、というパターンが度々ある。つまり、アーティキュレーション上のフレーズ・エンドが、次のフレーズへのきっかけとなっているわけなのだけど、デュナーミク上、その音をフレーズのおわりとして処理するとアウフタクトとして機能しなくなるし、アウフタクトとしてとらえるとフレーズの収まりが悪くなるのだ。
 これを演奏するのが・・・アホみたいに難しい。
 いや、無理ッスよ。アーティキュレーションとフレーズのまとまりを、折衷的にバランスさせようとしてみたんだけどさ、そうするとどんどん、アーティキュレーションの意味が失われていくし、アウフタクトとしての推進力も弱くなってしまう。じゃあ、どっちか片方に重点をおいてみたらどうかっていうと、それだと記譜やリズムに対する演奏の正確さが失われてしまうんだよね。
 名だたる名門オケのプロプレイヤーは、どのように演奏しているんだろうと思って、YouTubeでいくつかの演奏を聴いてみた。しかし、うーん、よくわからない。でも、うまーくバランスさせて吹いてるのかな、やっぱり・・・。リズム通りのアウフタクト感を大切にしつつ、アーティキュレーションは記譜どおりにしている、つまり、(アウフタクト感):(アーティキュレーションのフレーズ感)=6:4って感じだろうか。

 シューベルトという方、どんな人だったんだろうと思って調べてみると、お父さんが学校の校長先生で、お父さんはフランツ(・シューベルト)を教師に育てるつもりだったんだけど、フランツはその、教師になるための学校で音楽に出会って好きになってしまい、教師の仕事を手伝ったこともあったが結局、作曲家としての夢を諦められなかったらしい。なので、「音楽に出会わせてくれた父に感謝はしているが、父の願い通りに教師になるのは御免」という葛藤と、生涯、戦い続けたようだ。なんだか、宮沢賢治と似てるね。

 親の願いというのは、力であると同時に、制約でもある。
 やっぱり、子どもの人生は子どものものなのだから、親が制約しすぎてはいけないね。ただ、そういう葛藤のなかから、シューベルトの音楽や賢治の文学のように、すばらしい作品が生まれてくるのだから、皮肉なものだ。
 青い灯りは美しい。しかし、おだやかなオレンジ色で輝き続ける人生の方が、本人は幸せなのは確かだろう。人間の幸せと表現の美しさが相反しつつ共存するものなら、世界はいかにも、生きづらい。