・・・スタンス・ドットは、立ち位置を変えるためのものでなくて、それを変えないためのものなんだよ、わたしにとってはね、・・・
堀江敏幸さんの「雪沼とその周辺」という短編集が好きだ。
堀江さんの本は、ええと何だったかな、確か植物標本を題材にした本を読んだこともあって、こちらも良かった印象がある。言葉の発する声が、静かでよい。コントラストの浅い、それでいて解像感の高い、モノクロームの写真を見ているような気分になる。レンズでいうと、キヤノンかな。そんな感じ。
どの短編も好きなのだが、巻頭に収められている「スタンス・ドット」がやはり印象深い。「雪沼・・・」は時々読み返すけど、ひとつだけ選んで読み返す時には「スタンス・ドット」をよく選ぶ。
読みながら考えることは、果たして自分は、もっと歳がよって何かの現役を退く時に、若かった頃の自分に、よくやった、と言って手を握ってもらえるような自分であれるだろうか、ということ。そのことを考える時に、大事なことは、若かった頃からその日まで何を変えなかったか、ということ、だろうか。
若い頃、僕は何を大切にしていただろう。何かあったはずなのだが、と首をひねるのだけど、近頃どうも、思い出せない。
ああでも、そうだな、例えば、今はバイクを降りてしまったけど、バイクに乗る時には、なるべくキレイなライディングに見えるように乗ることを心がけていた。早く、とか、アグレッシブに、とかじゃなくて、キレイに。具体的に言うと、直線を走る時にはブレないように真っ直ぐ走り、カーブはできるだけワンモーションで曲がれるようにしていた。
特にカーブにはこだわっていた。崖側のカーブで奧が見えない時には多角形コーナリングにならざるをえないけど、カーブの全体像が見渡せて、Rに大きな変化がないようなカーブでは、途中でリーンの角度をみだりに変えないように気をつけた。
他人にとってはどうでもいいことだろう。でも、僕自身のスタンスとして、教習所の8の字カーブからすでに、そのことを意識していた。そして、子どもができてバイクを売るまで基本的には同じスタンスでいられたように思う。もちろん完璧にいつもそうだったとは言えない。天候や状況によっては、足をつきながらおそるおそる進んだり、奧に行くにしたがってRが小さくなるようなカーブは、途中でリーンの角度を変えたりした。でも僕は可能な限り、カーブ進入するときのブレーキングと体重移動から、カーブ脱出の加速までを、流れるように、一連の動作としてこなすことをモットーとし、バイクを降りるその日まで実践していた。
バイクは、子どもができて乗る時間がとれなくなったので、売り払ってしまい、その金はカメラを買うのに使った。
歳をとれば自然と生活は変わる。新しくやらねばならないことができたり、その一方で、諦めたり辞めてしまったりしなければならないこともでてくる。そういう中で、何かひとつのことにこだわり続けるってことは、結構難しいことなんじゃないだろうか。近頃はそのように感じる。そして、若かった時代は、日に日に遠ざかる。そして、あの頃にこだわっていたこと、変えまいとしがみついていたことが何だったのか、だんだん思い出せなくなる。でも、そうやって思い出せなくなってきたからこそ、僕はもう一度、遠眼鏡を使って、若かった頃に僕が心の重石にしていたことを探したいな。
今、僕がこだわるべきことは、何だろう。