笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

さて、どうしよう。

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般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切転倒夢想

般若心経

 

 哲学というと、食えないモノ、役に立たない論理の遊戯、なんてイメージがあるけど、僕は結構好きだ。確かに、金にはならなそう(たぶん実際に、儲からないだろう)だし、遊びにしては小難しい。しかし、功利主義から離れた地点から、鋭く物事の本質を見抜き、ドクサの鎖を断ち切ってくれる哲学は、僕の心を軽くしてくれる。
 20世紀の西洋哲学の出発点のひとつはニーチェだろう。19世紀末、神の死の宣言によってキリスト教的人生観が崩壊し、ヨーロッパの精神は教会の瓦礫が散乱する更地となった。その荒地の上に、20世紀の哲学者たちは新しい生き方の指針を建て直そうとしていく。その帰結していく先のいくつかが、東洋哲学である仏教の「空」の理論に似ているのはとても面白い。
 実在を「空」と認識した後に、仏教が、四諦により涅槃を目指すのに対し、西洋における実存主義は個人を積極的に世界へと投げ出していく。僕は若かった頃、この仏教の消極性が嫌いで、とにかく自分の心が向いた先ならばどこでも自分から飛び込んでみるようにしていた。実存主義の提唱するアンガージュマンだね。けど今、病気になって、そういう生き方が「なんか、しんどいかも」と思うように変化している。

 病気のせいだけじゃなく、単純に、歳なのかもしれない。僕ももう、決して若くはない。今日、日本人男性の平均寿命は80歳程度だと言われていると思うのだけど、その分水嶺である不惑の齢はとうに越えた。
 身体能力としては下る一方の残り半生を、僕はどうやって生きようか。無為に過ごす、というのもひとつの考え方かもしれない。しかし、仮に世を去るまで健康に生きるとして、その日まで30年以上あるわけで、その膨大な時間を何もせずに過ごすというのもなんだかしんどい。無理がきく体ではないし、新しい能力を獲得することは年々難しくなってきているけど、30年もあるなら何かできるんじゃないかな? などと夢見るのは、悪いことだろうか。
 色即是空・空即是色が真実で、諸法無我諸行無常であるならば、むしろ、いや、だからこそ、自分の気に入るように生きてみたい。好きでもないことを頑張るのではなく、自分が本当に楽しいと思えることを生活の中心に据えて過ごしていきたい。久しぶりに般若心経を読んでみて、そんな風に思った。

 いや、今までだってそうしてきたんだ。けど、下降線をたどっていく自分の能力の先を考えて、死ぬ間際になった時、最後まで残しておきたい能力は何だろう、その瞬間までやりとおしたい事は何だろう、そのために今やるべきことな何だろう、ってことを、引き算の思考法で考えなきゃなあって思うんです。
 新しい事に今からチャレンジする元気はない。だから、今できる事の中から、自分の人生の終着点まで継続出来そうなことを選び取って、深めていくとしたら、それは何だろうということを考えたい。
 うーん、何がいいだろうな、こうやって言葉を綴るのは嫌いじゃないし、無理なくできるに違いない。もうちょっと上手に書けるようになるといいかも。このブログでは、人に読んでもらうことをあまり考えないで書いているから、読んでもらうことを前提にして書けるようにしていこうかな。
 あとは、楽器だなあ。今は中学生に教えているので、何でもできるように、あえて浅く広くトレーニングしているけど、トランペットとクラリネットがある程度吹けるようになったら、自分が最後までやりきれる楽器をちゃんと決めて、もっと深く表現できるように勉強したい。ジャズのインプロは、理屈がやっと飲めてきたので、本腰入れて勉強とトレーニングをしようかな。
 うん、そうしよう。

 このブログ、この記事が500個目なんだってさ。書きも書いたり、書き散らしたり。読んで下さった皆様、ありがとうございました(まだ書くけど)。