笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

「津軽」読みました。

 

 ・・・まだまだ書きたいことが、あれこれとあったのだが、津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語りつくしたようにも思われる。私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。

 

津軽」 太宰治 角川文庫

 

 嘘だ。太宰は虚飾をしているし、書き尽くしていない。
 しかし、書き尽くしていないが、その空白を含めて太宰は書き尽くしているのだし、虚飾をもって彼の真実を読者に感じ取らせようとしている。
 太宰という人は、屈折した人だ。何重にも折れ曲がって、結果、一周回って素の人間がさらけだされているのを、また覆い隠そうとしていつも失敗し、恥ずかしさのあまりやけっぱちになる。そんな人だったんじゃないかな。僕はそう思う。
 太宰は津軽を愛していたか? 多分、愛していたのだろう。しかしそれは、生家・津島のある津軽ではなく、ぽっかり穴のあいたドーナツのような、津島を除いた周辺にある津軽をこそ、太宰は愛していたに違いない。どこか粗野で、不器用で、しかしあまりに正直な、津軽。それは、土地の名家として金屏風を背負った太宰の生まれとは、どこかそぐわない気質だ。そのギャップに、太宰は生涯苦しんだ。
 自分の体に流れる血を愛せない、という感覚は、どればかり苦しいものだろう。その血によって育ち、生きている自分が、その血を憎む。どんなに肌をかきむしったところで、血を抜いて身を洗って、そこらを流れる川の清水に入れ替えるというわけにもいかぬ。
 余談だがおそらく、宮沢賢治にもその感覚があったのではないかと僕は思う。そして、僕にもその感覚がある。

 親は子を選べないし、子も親を選べない。これは、やむを得ぬことだ。しかし、親は子を得るか得ぬかを選ぶことはできる。そして、得ることを選んだ以上は、親は覚悟をもって子を得るべきだ。すなわち、どんな子であろうが、なるだけその子を幸せにしてやろうという覚悟をもって。
 太宰の親兄弟にも、その覚悟はもちろんあっただろう。そして、できうる限りのことをしてやっただろう。しかし、たとえ親兄弟であっても、その子の身に流れる血を洗い流して新しく別の血をいれてやることはできない。

 ないものねだり。
 そうなのだ、そんなことは誰にもできないのだ。だから、太宰はどうにも解決のしようのないことで悩んでいるのであり、それ故に彼の悩みは、馬鹿馬鹿しく、深刻だ。それを太宰は、そっと胸の奥にしまい込んで静かに生きることもできたかもしれない。だが、そうしなかった。できなかった。粗野なほど正直な津軽人として、東京で生き、近代化の時代の鏡に映った自分の姿に絶望つつも、やけっぱちなほど正直に振る舞った。
 津島の血、津軽の血。
 太宰はそれに絶望していただろうか。この問いに答えるのは難しい。どうしようもなく絶望する思いと、それでも愛するしかないから愛しつくすという覚悟の、両方があったのではないのだろうかと、僕は察する。そして、絶望と愛情の両極端を、子どもがふざけて全力で漕ぐシーソーのように、忙しく往復していたんじゃないだろうか。

 身から引き剥がしようのない絶望は、決して消えない。消えないものを消そうとするのは愚だ。だから、うまくごまかしながら生きるしかない。太宰は、39の歳まで生きて、玉川上水に沈んだ。ごまかせなくなったのだろう。人生綱渡り。バランスを崩したら、はいそれまでヨ。悲しい。僕は太宰の死を悲しいと思う。ここに、あなたの死を悲しむ人間が一人いるのだ、ということを太宰に知って欲しいと願う。太宰は、苦笑いするかもしれないけど。でも、一人では決して、水の底に行けなかった太宰のことだから、寂しがり屋の彼のことだから、彼のことを思う人がいることを、彼は嫌がらないだろう。たぶん。

 とにかく。
 僕は、絶望しながらも、なんとかかんとか、生きている。そして、一読者として、彼の作品を読み、彼に会う。元気でいこう。では、失敬。