笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

バッハは美しい。

f:id:sekimogura:20230710203137j:image

 

 高校生の頃、上手なフルートの先輩がいた。
 その先輩、確か、ムラマツのADを使っていたように記憶している。スタンダードの後継機で、現在のDNに相当する、引き上げ音孔のハンドメイドクラスだ。先輩の技量も凄かったが、YFL-311Ⅱしか吹いたことのなかった僕にとってADは、超高級品だったし、音色も別格であった。
 その先輩、僕が入部した時にはもう引退していて、一緒に演奏したことはなかった。けれど、受験勉強の合間に遊びに来たその先輩が、パラパラと楽器を吹いているのは時々聴いていて、「ええ音してはんなあ」と感心していた。

 ある時、その先輩がバッハの無伴奏パルティータのアルマンドを吹いていた。
 バッハ、何という美しい音楽だろう。ADの、ムラマツらしいダークな音色がたどるアルペジオが、吹奏楽部の練習場所だった体育館のエントランスに響き渡っているのを聴いて僕は感動した。世の中に、このような素晴らしい音楽があるのか。それを、一介の高校生がこんなにも美しく奏でることができるのか。いつも過ごしている体育館のエントランスが、まるで無限の宇宙空間になったかのように感じられた。先輩の吹くバッハは、ただただ、美しかった。

 それが僕とバッハとの出会い、という訳ではなかったのだけど、心の芯から「バッハはいいなあ」と感じたのはその時だったと記憶している。そしてその経験が、当時通っていた音楽教室でバッハのソナタシチリアーノを発表会の曲にしてもらったり、CDを買い漁ったりするきっかけになったは確かだと思う。
 その後しばらくして、先輩は卒業し、僕はベーレンライター原典版無伴奏パルティータの譜面を買った。その譜面は今でも持っていて、時々吹く。まだ表紙がオレンジ色だった時代のベーレン原典版だ。表紙の角が擦り切れたので、テープで補強してある。もう何百回吹いたか分からない。僕の愛奏曲のひとつである。

 大バッハの音楽は美しい。
 対位法のルールについて詳しいわけではないので、あまり知ったかぶったことを書くと怒られそうな気がするが、曲の流れに従って変化していくモチーフを追いかけていると、星屑の海を漂って遊んでいるようで楽しい。

 

Fly me to the moon and let me play among the stars
私を月へ飛ばして そして星の間で遊ばせて

 

「Fly me to the moon」バード・ハワード(作詞・作曲)
ジャズ詩大全1 村尾陸男 中央アート出版社

 

 先だって、C.P.E.バッハソナタと福島和夫さんの「冥」の譜面が欲しくて、音楽之友社の「無伴奏フルート名曲集[改訂版]」を買った。オトテールから福島和夫さんまで、古今の無伴奏フルートのための名曲が収められているのだが、その中に大バッハのパルティータもあった。
 やっぱり入っちゃうよねー、と思いながら、音友版の譜面でパルティータも吹いてみた。すると、ベーレン原典版とは音がちがうところがある。なんだこれ? 思わず、二度見した。でも、確かに違う。ベーレン版ではFのはずの音が、音友版ではGだ。
 どちらがいいとか、どちらが正しいとか、そういうのは僕には分からないのだけど、何十年もベーレン原典版を吹いてきたので、音友版はものすごく違和感がある。音友版・・・なんかヤだ。ああでもね、譜面ヅラとしては、音友版の方がスッキリしていて、論理的に正しく、前後との整合性を重視している感じだ。見た目は、音友版の方が好き。しかし不思議なのは、論理的に正しければ、曲として美しいかというと、そうとも言えないってところなんだよな。もちろん、慣れの問題もある。けど、音友版も何度か吹いた上で、吹き比べてみて、なーんかやっぱり、音にした段階では、ベーレン原典版の方が好きだ。もちろん、もっとさらに音友版を吹き込んで仕上げれば、また感じ方も変わるのかもしれないけど。

 これから先、どっちで吹くかって訊かれたら、うーん、当面はベーレン版かな。もうね、指も耳もそっちで覚えちゃってる。今さら、簡単には変更できないくらいに。もし変更するなら、そうとうさらいこまないとダメだ。ただ、この曲で演奏会をする予定もないので、集中的にさらったりもしないだろうけど。
 音友からは有田正広さん校訂のパルティータの楽譜も出版されている。こっちではどうなってるんだろう? 気になるなあ。

 しかし、どっちで演奏するにせよ、バッハはやはり美しい。同じバロックであれば、ヘンデルテレマンも美しいし、彼らの音楽も好きなのだけど、バッハはやはり特別だ。音楽の充実度が高いと感じる。そして、時代は少し下ってC.P.E.バッハとなると、バロック音楽の衰退期になってしまい、音楽が枯れてくる印象がある。その枯れ具合も好きではあるんだけど、まあやっぱり、J.S.バッハがいいかな。彼の音楽には、磨き込んだ銀器のような光沢があると、僕は思う。