笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

ヴィヴィアン・マイヤー

f:id:sekimogura:20220217141113j:image

 

 ・・・それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。・・・ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。・・・

 

キャッチャー・イン・ザ・ライ」 J.D.サリンジャー 村上春樹(訳) 白水社

 

 ヴィヴィアン・マイヤーが話題になったのは、もう十年近くも前だろうか。その頃の僕は、ロストジェネレーションだとかビートニクだとか言われた時代のアメリカ小説に夢中だったので、その時代のアメリカっていうのはどんなものか興味があって、ヴィヴィアンの写真も熱心に眺めていた。
 図書館の蔵書にヴィヴィアンの写真集はなく、わざわざ一冊買い求めた。大判の写真集は安くなかったけど、今でも時々開くので、買っておいてよかったと思う。
 ヴィヴィアンの撮った写真をながめていると、フィッツジェラルドやケルアックの作品のフレーズが頭の中を響きとなって通り過ぎていく。中でも、サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の、ホールデンがフィービーに自分のなりたいものについて語る言葉は頻繁に思い出す。そして、ホールデンが最後に訪れる博物館に、ヴィヴィアンの写真が飾ってあるところを思い浮かべる。僕の中で、ヴィヴィアンの写真とサリンジャーの小説は、極めて親和性が高い。それは、僕の持っているヴィヴィアンの写真集の中に、子どもを撮ったカットが多いせいかもしれないが。

 僕は、子どもを撮る時に心がけていることがある。それは、できるだけ子どもの目線の高さまで降りて撮る、ということだ。
 それはつまり、子どもの世界まで入り込んで撮影する、という風にも考えることができる。大人の視線、大人の世界から撮ったのでは、子どもは子どもらしく撮れない。僕はそんな風に感じている。高い位置からのぞき込むように撮ると、文字通りの「上から目線」なわけで、それではその子の本当の美しさをとらえていない写真しか撮れない。真実が撮りたければ、相手と自分のアイレベルをそろえることが大事。それは、撮る対象が子どもだろうが大人だろうが何か物体だろうが、同じ事だと思う。

 しかし、実際にやろうとすると、なかなか、腰が痛い。子どもの目線の高さまでカメラを下げて、そこから水平に撮るというのは、楽ではない。ヴィヴィアン・マイヤーという人、かなり背が高かったようだ。そういう人が、子どもを水平に撮影するというのは、かなり大変だっただろう。彼女のカメラはローライフレックスという二眼カメラで、ファインダーは上からのぞき込むスタイルになるわけだが、それでも子どもの高さでレンズを水平に構えるためには、腰をかがめなければならなかったに違いない。

 ヴィヴィアンの撮る子どもたちは、なかなかに表情豊かだ。気取っている子もいれば、顔をしかめている子もいる。何かに熱中してレンズの存在になど気づいていない子もいる。すべてがいい表情であるとはいえないが、撮られたその瞬間にその子が感じている感情がストレートに写っていていい。もし、大人が「上から目線」で撮っていたら、子どもはどんな顔をしていたって「かわいいね」で済んでしまうのだろう。しかし、ヴィヴィアンの撮った写真の子どもの表情からは、こちらをどきりとさせる緊張した空気が伝わってくる。
 この子たちが、その後どんな大人になったかは分からない。ただ、なんとなく僕は、子どもを「上から目線」で撮る大人になっているんじゃないかな・・・などと想像してしまう。なんとなく、だけどね。