笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

一旦停止

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 先だって、散歩をしていた時のことである。
 近所に、見通しの悪い交差点があって、まあそういう所はどこでも大抵、直行する道のどちらか一方が優先、もう一方が一旦停止になっているのだけど、僕がその時渡ろうとした交差点も、そういうつくりになっている。交差点に信号はない。
 僕が渡ろうとしたのは、一旦停止のある側の道路。徒歩なので当然、横断歩道を通ることになる。角には建物。一旦停止の奧の様子は見通せない。なので、様子をうかがいながらゆっくりと交差点の方へ歩道を進んでいった。
 僕が、もう横断歩道まで二メートルほどまで来た時、そこまで繰るとやっと一旦停止の向こうの路地が見通せるのだけど、車が一台、交差点に進入してこようとしているのが見えた。あまり早いスピードではないが、そろりそろり、という感じでもない。僕からは、光の反射の加減でドライバーの顔は見えないが、もし僕がドライバーなら、まちがいなく歩行者の僕に気づくだろう、という位置関係。
 あちらから僕は見えているだろうし、一旦停止の交差点でもあるから、減速してくれるにちがいない。僕はそう考えて、そのまま横断歩道に足をかけた。
 しかし。
 車は減速せず、そのまま交差点に突っ込んできた。僕は身の危険を感じて、横断歩道上で立ち止まった。車は、停止線を無視して横断歩道を横切り、そこでようやく停車。僕のへその前、三十センチのところに、おじいちゃんドライバーの顔があった。
 そのおじいちゃん、僕のお腹が自分の顔の正面まできて、やっと歩行者の存在に気づいたらしく、僕の顔をみて「あ、ごめん」みたいな顔をした。
 おじいちゃんの顔まで三十センチなので、僕の体から車のボディまでは十センチほどだっただろう。あぶねえ・・・。立ち止まって正解だった。

 こういうの、時々ある。
 交差点の見通しが悪いってのも、もちろん原因なのだけど、そういう時の車のドライバーはやはり、高齢者率が高い。若者の運転で、あぶなっかしく感じることもあるけれど、こうい「うっかり」的なヒヤリハット事案は、やっぱり高齢者ドライバーに多いというのが僕の実感だ。社会が高齢者に対して免許返納を迫りたくのも、なんとなくうなずける。事故は、誰も幸せにしない。
 ただね、年配のドライバーだって、車なしで生活できるなら、さっさと免許返納してると思うんだよね。でも、返すに返せないっていうのはやっぱり、車を運転できた方が便利だったり、車がないとそもそも日常生活が成り立たなかったりする場合があるのだと思う。
 いや、今「思う」と書いたけど、実際そうなんです。今、公立中学校の部活動支援員をしているのだけど、車でなければ通勤のできない学校って、いっぱいあるんです。それはつまり、車がなければ現代人として当たり前の生活ができないエリアがたくさんあって、そういうところに住んでいると、車や免許をうかつに手放せないってことなんです。
 そりゃあさ、車がまだ一般に普及してない戦前みたいな世の中ならともかくよ? ・・・時代は令和だぜ? 始発が八時で最終が十八時の、一時間に一本のバスだけで暮らす訳にはいかないでしょうよ。歳はとっても・・・いや、歳をとったからこそ、車はやっぱり必要って人は多いだろう。
 じゃあやっぱり、ただただ免許返せっていうんじゃなくてさ、なにかイーブン以上の代替手段を用意した上で、「こちらをご利用ください。ですから、免許は返納してください」っていうのが筋じゃないかな。この問題って、そう遠くない未来には高齢者になる僕たちの問題でもあるんだよね。だって、車ないとそれなりに困るもん。特に買い物とか。腰が曲がってから重い荷物持って歩くのは、絶対つらいはず。無理、ってケースだってきっとあるだろう。そうなったらもう、生命を維持できるかどうかって問題になってくる。

 自家用車を利用できるのと同じ程度の便利を、免許無しで享受するためには、どうすればいいだろう。自動運転を実用化してオートパイロットの自家用車をもつか、それともタクシーのような自由度の高い公共交通機関が鉄道なみの廉価で利用できるようにするか・・・そういう議論をもう、今すぐに初めて、明日には実行できるようにするべきだと僕は思う。これ、日本社会にとっては結構、待ったなしの課題なんじゃないかな。

 そんなことを、見知らぬおじいちゃんの車に轢かれそうになるたびに考える。