笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

森山大道

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 写真をかじったことのある人なら、森山大道さんを知らぬ者はいないだろう。 かく言う僕も、多少写真をかじり、森山大道さんの作品に触れ、「これはマネできん」とため息をつく一人だ。
 森山さんの写真、マネできそうで、マネできない。同じように撮ったつもりでも、同じにならない。不思議だ。僕の機材がデジタルだから、とか、カラーで撮っているから、とか、そういう単純に表層的なことではなく、何というか、撮ろうとする対象を見抜く深さと的確さが、まるで違うのである。

 森山さんの代表作といえばあの、基地の街で撮られた犬の写真だが、あの犬を見ると、「あの時代の基地の街に生きる日本人っていうのは、ああいう目をしてたんだろうな」と感じずにはいられない。僕はカメラを手に犬を見て、あんな風には撮れない。もちろん、今の日本の空気感をその対象である犬なり何かなりに落とし込んで撮影することもできない。そもそも、僕が今生きている時代とは何か、どういう空気が満ちているのかを、あんなに的確にとらえることすらできない。
 天才、という言葉は大嫌いだが、天才なんだろうなと思う。凡才が努力の果てに手に入れられる能力の、そのもう少し先まで手が届く能力を得られる人を、僕たちは天才と呼ぶ。僕には多分、森山さんの肉体と精神に備わっているような眼やセンサーみたいなものは、ない。

 森山さんと同世代の写真家でビッグネームといえば、荒木経惟アラーキー)と篠山紀信が思い出される。彼らも天才と呼んで差し支えないだろう。
 ただ、表現の質はかなり違っている。篠山氏は、自分の表現したいイメージがまずあって、それに向かって表現を構成していく。荒木氏は、対象の表面をはぎとって、内側へと深く掘り進んでいく。
 しかし森山さんは、もっとフラットに、対象の表面を切り取っていく。そして、大量のカットを並列に並べることで、とてつもなく大きな対象の全体(たとえば、ひとつの大きな街)を見せている。

 僕にも、ああいうセンサーがあればいいのにな。いつか、あんな風に撮ってみたいと思う。そして、写真を完成させてみたいと思う。思った通りの写真が撮れるようになるまでに、さて、どれくらいかかるかな?


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