笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

生田の森


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 用事があって三宮に出た。
 兵庫はいまだ、緊急事態宣言下にある。繁華街の人出は少ない。春も間近だというのに、大晦日の午後のようだ。シャッターの降りている店も増えている気がする。用事を済ませた後、ほんの少しだけ遠回りをして生田ロードを北上した。大きな朱色の鳥居が、閉店した東急ハンズのビルの向こうに見える。生田神社だ。
 パンデミックの前には、半年に一度くらい立ち寄っていた。しばらく来ていなかったのだけど、久しぶりに鳥居をくぐった。人影はまばら。手水舎は閉鎖されている。内側の鳥居のところには消毒液のポンプが並んでいる。どうも去年あたりから穢れの定義と禊ぎの手順がかわったらしい。

 手指をよく消毒してから本殿に手を合わせる。それから僕はお社の裏手にまわった。神戸の都心、そのど真ん中に、小さな小さな森がある。生田の森だ。
 僕はこのコンパクトな神域が好きで、コロナ騒ぎがおこる前には時々訪れるのが習慣だった。ここはとても静かだ。もちろん街の真ん中だから、それなりに騒音はあるのだけれど、それにもかかわらず、僕はここで静けさを強く感じる。まるでシェルターで守られているように、この小さな森は野生の森林の静寂を木立の薄闇に保っているのだ。時が凍っている。そんな風に感じる。
 大きな木には、注連縄が飾られている。ご神木なのだろう。堂々とした佇まいは威厳に満ちている。僕は樹木については全くの無知なので、それが何という種類の木なのかさえ分からない。たったひとつ僕に理解できることは、この木がとんでもなく強いということだ。僕の何十倍、いや、枝が抱く空と根が掴んだ大地まであわせれば何百倍ものサイズであるその静かな生物が強い命の力に満ちていることを、疑う余地はない。
 何かを「強い」と表現するとき、外側へと変化を起こす強さと内側を守る強さのふたつがあると僕は考えている。この巨大な樹木に宿る強さは、後者だ。もちろん、長いスパンで観察すれば外側へ向かって少しずつ環境を変化させる力も持ち合わせていることが理解できるのだろうが、この木よりずっと短命な僕たちが肌身で感じられるのは、風雪、寒暑に耐えながら時の流れを見下ろし続ける静かな強さである。
 強いものに守られた空間にいるのは心地がいい。ここではパンデミックでさえおとぎ話の国の出来事のようだ。空を覆う枝に漉された淡い陽光の肌触りは限りなく優しい。

 僕には小学生の子どもがいて、時々コロナウィルスのことを言って怖がることがある。まだ低学年なのではっきりと理解しているわけではないのだろうが、学校で言われたりニュースで見たりするから、やっぱり不安を感じるのだろう。仕方がないと思う。できればきちんと守ってあげたいけれど、医者でも何でもない僕にできることは少ない。
 先だって、通っている珈琲屋さんの店長から、医療関係のお客さんにワクチン接種の案内がきたらしいよと聞いた。ついに始まるのか、と思った。ワクチンは僕たちを守るシェルターになるだろうか。なるといいのだけど。
 神様、どうか僕たちをコロナの脅威からお守りください。悪疫退散。ワクチンが悪い病気を追い払ってくれますように。僕は、巨木のごつごつした厚い樹皮を見つめながら、子どもの顔を思い浮かべてそんなことを願った。
 願うしかない僕は、無力で、小さい。


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