笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

タンク山


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 ・・・私は待った。陽の光で、頬が焼けるようだった。眉毛に汗の滴がたまるのを感じた。それはママンを埋葬した日と同じ太陽だった。ありとあらゆる血管が、皮膚のしたで、一どきに脈打っていた。焼けつくような光に堪えかねて、私は一歩前に踏み出した。私はそれがばかげたことだと知っていたし、一歩体をうつしたところで、太陽からのがれられないことも、わかっていた。・・・

「異邦人」 カミュ/窪田啓作(訳) 新潮文庫

 

 神戸連続児童殺傷事件と一般に呼ばれる事件が発生した時、僕は高校生だった。
 同じ市内に住む年の近い少年が殺人を犯したというニュースは、それなりに衝撃的だった。しかし、当時の僕は、事件と自分との距離感をうまくつかめなかった。事件自体は非難されるべきものだという認識はあったけれど、何となく・・・そうせざるをえなかった少年の気持ちに寄り添う気持ちもあった。
 そうせざるをえなかった・・・自分でそう書き、この表現に強い反感を覚える一方で、他に言いようがないとも感じる。長い間、この感覚に戸惑っていた。罪悪感さえもっていた。僕は事件の当事者ではないけれど、ほとんど自分の生活圏と言える場所でこの事件がおこったために、やはり何か考えないわけにはいられず、自分の気持ちの肉襞に指を突っ込んで何かを掻き出してみればそこから出てきたのは、「あながち分からないでもない」という感情で、身に覚えのない罪の証拠がポケットから出てきた子どものように僕は不安になった。
 数年前、僕の同級生だった友人と、この事件の話になった。友人ももちろん神戸に住んでいて、彼はこんな風なことを言った。
「あの事件な、俺、時々、自分が犯人でもおかしくなかったって思うんだよ。あのあたりって、ああいう街でしょ? なんか、ああいう街で暮らしてると、ああいうことしたくなるよね、一歩間違えば本当にやっちゃうよねって・・・そう思うんだよ」
 この言葉を聞いて、ああ自分だけではないのだなと僕は思い、少し救われた気分になった。僕たちは、あの時代に特有の、どこにも行き場のない感覚と、それをなんとか打ち破りたいがどうにもならないという絶望感を共有しているんだと思う。
 ただ、彼は「ああいう街」という風に、事件のあった街あたりのことを言った。彼が住んでいたのは、事件のあった場所から地下鉄で数駅の場所で、僕の実家のある辺りからは少し距離があるけど、友人の言う「ああいう街」がどんなところなのか、それからずっと気になっていた。いつか行ってみようと思っているうちに数年が経ったが、この夏、僕はやっと重い腰を上げてあのタンク山を訪ねてみることにした。


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 神戸には「○○丘」「□□台」という地名がいくつも並ぶ地域がある。それは昭和四十年代に造成されたニュータウン群に多い地名だ。神戸では地下鉄沿線に多い。いや、そういう地域と都心を結ぶために地下鉄ができたのだ。そして地下鉄の駅前には巨大なロータリーがあってひっきりなしにバスが発着し、ニュータウン地域を循環している。
 タンク山があるのもそういう名前をもつ地下鉄沿線の街だ。三宮を発車した地下鉄は新長田を過ぎてぐいと進路を変更し、一気に山を駆け上る。そしてトンネルを抜けると地下鉄は地上に出て、車窓を眺める僕の目にまず飛び込んでくるのは、無限に続く公営住宅のドミノ。駅周辺に高層化された公営住宅を集め、そこから少し離れたところに戸建てが並ぶ地域を用意するのは、昭和中期以降に成立したニュータウンに共通する構造であろう。
 例に漏れずここも駅前に大きなロータリー。僕はバスには乗らず、マップの案内に従って高層住宅の壁の隙間をすり抜けるように歩いて行く。目隠し板のような高層住宅の向こうに出ると、どこまでも続く戸建ての住宅群と、学校のグラウンド。この辺りには公立私立を問わず高校も多い。大学の飛び地キャンパスもある。
 地下鉄、バス、公営住宅、戸建ての住宅街、学校・・・。これらが、「○○丘」「□□台」という名前の街のキーワードだ。そして重要なのは、それ以外のものがなにもない、ということだろう。街中には、コンビニはおろか、小さな商店すらない。戸建て風の建物に看板が出ているのは、医院か鍼灸院だ。遠くにはコープの看板が見える。
 おそろしくシンプルな街だ。都市型の人間が生活していくための最低限の要素で構成されていて、余分なものがない。ミニマリスト、などという肯定的なイメージとは違う。なんだろう、遊びがない、息苦しい。行き交う循環バスと一緒に、時間も空間も循環して堂々巡りしているようにさえ感じる。果てしがなく、同時に、とても狭い。
 小高い丘を開いた高校のグラウンドの高いネットに沿って歩いて行くと、やがて、こんもりとした森が見える。マップでたしかめると、あれがタンク山らしい。
 できればタンク山に入ってみたかったが、入口には柵がかかっていて、静かに人の進入を拒んでいた。僕はタンク山の周囲をぐるりと歩いてみる。タンクらしい構造物が少し見えたが、燃えあがる炎のような森が目隠しをしていてほとんど認識不能だ。なんとか見えないかと可能性をさぐっていると、背の高い高層住宅がすぐ裏手にあった。そのたたずまいになんとなく見覚えがあり、よく確かめると、以前車で来たことのある知り合いの住む建物だった。そこで、ちょっと失礼して最上階に上って、タンク山を見下ろさせてもらう。そこからもやはりタンクは見えなかったが、住宅街の真ん中にこんもりと森が鎮まっている様子は、まるで古墳のようだった。


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 どんな街に住んでいようが、人を傷つけることが許されるはずはない。それはもちろん分かっている。しかし、ある種の繊細な人間にとっては、この街が引き起こさせる「どこにも行けない」感覚に堪えられなくなることがあってもおかしくないな、という感想を僕はもった。循環バスは、同じルートを右回り左回りにぐるぐる回り続けるだけで、決して輪の外へ外れていくことがない。そういう息苦しさが、ここにはある。
 強調しておきたいのだけど、僕は決して、少年の罪を赦したいとか、擁護したいとか思っているわけではない。僕には子どもがいて、もし僕の子どもが被害をうける側の子どもだったら、僕は加害者を決して赦さないだろう。僕は断じて、理由のない過剰な暴力を認めはしない。だけど、ここにある、法律だとか倫理だとかで規定できない不明瞭で科学的でも合理的でもない、古代的、プリミティヴ、アミニズミックな気分の渦を、ある種の空気に敏感な人間は感じてしまうんじゃないかな。いや、むしろ気分の外側に明文化された社会のマトリクス、倫理のフレームがあることによって、言葉では決して表すことのできない何かが強調されて感じられるんじゃないかな・・・。

 僕はこの件について、もうこれ以上深く、言葉を使って考えることもできなければ誰かに僕の感じている気分を伝えることもできない。だから、もう語るのをよそうと思う。言葉では切り取れない物事が、この世の中にはあるのだろう。お化けとか妖怪とかみたいなものだ。だだ一つ、言っておきたいのは、こんな誰も救われない事件はごめんだということ。そして、最悪の事態に至る前に事件が立ち止まるためには、社会だとか空気だとかいうものに、風穴やアソビが必要だということ。「いや、ちゃんとあるよ」なんて反論は意味をもたない。そういうのは、俯瞰している人間には理解できない、極めて個人的な感覚だから。


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