笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

島村楽器


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 おまえはそのままで正しいーー。いつものアブラクサスの啓示が聞こえた。サックスの音もドラムの音もはっきり別々に聞こえ、別々のままに融合していく。ぼくはこんな幸せがこれ以上続いたら自分がこわれてしまうような気がした。アブラクサスの世界はいつものように、これはもう一つの、別の生き物なのだと思った。今自分を包んでいる強い光にこそ、ぼくにとっての自然だった。

 

アブラクサスの祭」 玄侑宗久 新潮文庫

 

 滅多にインスタを更新しない予備校時代の友人が、久しぶりに投稿した。いつもはサロンでネイルをかえてもらったとか、キャンプや釣りに行ったとか、そういう記事を半年に一度くらいアップするのだけど、今回の記事は、「実家にベースを取りに行った」という内容だったので、ちょっと驚いて、様子伺いのメッセージを送った。すぐに返事が返ってきて、久しぶりに会おうという話になった。
「ベースの弦、張り替えようと思うんだ。楽器屋、つきあってくれない?」
 そんな内容のお誘いだったので、島村楽器で待ち合わせた。
 僕は一時期、ギターを練習していたので、ギターのことは分かるのだけど、ベースについてはさっぱり無知だ。ギターだってローコードがいくつか弾けるに過ぎないのに、ベースに至っては調弦すら怪しい。楽器屋につきあってくれと言われたって、何の力にもなれない。けれど、楽器を眺めているのは好きだから、彼女のお誘いをだしに、久しぶりに楽器屋の敷居をまたいだ。
 僕が先に着いて、ベースの弦が案外高いことに驚きながら待っていると、友人は現れた。その姿に驚いた。
「 髪・・・ずいぶん思い切った色にしたね」
 彼女と最後にあったのは二年前の夏で、芦屋のおでん屋に行った。そのときの彼女の写真が残っていて、彼女は清楚で涼しげな白いブラウスを着て、髪は黒かった。その彼女は今、髪をサックスみたいな金色に染め、オーバーサイズの黒いTシャツをだぼっとかぶっている。まるで、バンドマンだ。
「私、やりたいことはもう、我慢しないことにしたの」
 彼女はきっぱりと言い切った。けど、もともとお洒落さんの友人だったが、今度のファッションは今までとあまりにテイストが違うので、さすがの僕も面くらい、なかなか言葉が出なかった。
 僕と彼女は、浪人の一年間を同じ予備校で過ごし、たまたま席が近かったので親しくなった。このグループにはもう一人女の子がいて、三人とも別々の大学に進学したけれど、帰省の度に連絡を取り合って顔を合わせた。その関係が、あれから二十年以上たった今も続いているから、僕たちはよほど反りが合ったのだろう。
 僕は横浜に行ったが、彼女は地元の大学に進学し、軽音サークルに入ってベースを始めた。ところが、手を故障し、ベースを弾けなくなってしまった。手は、日常生活に不便はないようだけれども、今でも痺れがくることがあるという。でも、音楽はずっと好きで、緊急事態宣言があけるとほとんど同時にライブハウスに駆け込んだらしい。

 僕も彼女も、人生の折り返し地点を曲がる年齢に達した。なんとなく、「人生の残務処理」みたいなことを考え始める時期なのかもしれない。やり残したことはいくつもあるが、その中から自分のやりたいことをきちんと選んだ彼女はえらいと思う。どちらかといえば、義務的にやらなければならないことを優先しがちだった今までの反省もあるのだろう。彼女は、僕と会っていなかったことにあった出来事や、ベースとともにすごすこれからのことを、パンクロッカー髪を振り乱しながらがリフをリフレインするように、ほとんど躁的に語った。
 で、ベースの弦のパッケージの棚を目の前にして、僕たちはどの弦を選んでいいのかわからず、最後は店員さんに頼った。二十年弾いていないのだと彼女が店員に告げると、「ネックが反っているかもしれないから、調整した方がいい」とアドバイスされ、でも彼女はどういうわけかベースをもってくるのを忘れており、結局その場では何も買い物できずに終わって、
「なんで楽器もってこなかったの?」
「なんで楽器もってこなかったんだろうね?」
と僕たちはその不始末を笑い合った。