笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

徳光院


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 山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空をさえぎっているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った。静かな境内の入口に立った彼は、始めて風邪を意識する場合に似た一種の悪寒を催した。
 

 

 布引山に徳光院という臨済宗の寺院がある。
 旧葺合区あたりでそだった子どもなら、他の寺は知らなくても、徳光院のことは知っている。布引山はこのあたりの幼稚園や小学校の遠足の定番コースであり、徳光院はその入口にあたるからだ。幼稚園や低学年ならこの徳光院がまず目的地になる。高学年になると、徳光院を通過して山道を進み、市ヶ原まで行くはずだ。かく言う僕も子どもの頃、徳光院を通って市ヶ原へ行き、飯盒炊さんなどした覚えがある。
 次男を通わせている幼児サークルが、いつもなら年度末に運動会を開催してくれるのだけど、今年はコロナパニックのせいで運動会ができないので、かわりに徳光院へ遠足に行くことになった。僕は毎年、その運動会を撮影している。今年は運動会のかわりに徳光院への遠足を撮ることになったので、下見を兼ねて散歩に訪れた。
 その幼児サークルは、いつも秋にここへ遠足に来る。僕は秋の遠足も撮ったことがある。秋の遠足では、どんぐり拾いと紅葉狩りをするのだ。徳光院の紅葉は美しい。時々、布引の滝まで足をのばすこともあるようだ。滝までの路は、大人の足なら何てことはないけど、就園前の小さな子どもが歩き通すのは大変だと思う。けれど、紅葉とどんぐりに夢中になった子どもはいつの間にか滝まで歩いてしまうそうだ。

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 新神戸駅を見下ろす橋をわたってずっと坂道を上っていくと、高校の脇に山門が見える。山門をくぐった瞬間から、そこは山だ。空気が変わる。すっと澄み渡る感じがする。静かだ。
 春先の徳光院の見所はなんだろう。辺りを見渡しながら考える。
 まずは、山門の前の三叉路に咲いている桜。僕が訪れた時は、まだ咲き始めで、ほとんど花がなかった。遠足の頃には五分咲きぐらいになっているだろうか。満開になるととても華やかになるだろう。それから椿。木漏れ日にまだらに照らされた濃密な緑と紅のコントラストがいい。
 それからやっぱり、この静けさと、今まさに新緑が枝という枝から吹きだそうとする気配だ。冬の終わりと春の始まりが月輪のごとくひとつながりになっているのが、ここでは実感できる。
 次男がお世話になっている幼児サークルでは、長女から三人とも、僕の子どもがお世話になった。その幼児サークルは、今年度で子どもの募集をやめてしまう。先生の家庭のご都合なのだそうだ。いつも笑顔で子どもに接してくれる優しい先生で、こどもたちは先生が大好きだったから、僕は先生にとても感謝している。それだけに、お教室を閉めてしまうというのが残念でならない。僕の妻を初めとする近所の現役のお母さんたちで、アルバム作りをすることになって、写真とメッセージの提供を呼びかけたら、六十以上の家庭から反応があったようだ。できればなくさないでほしい、お教室を続けてほしいというのがみんなの願いだと思う。しかし、無理は言えない。僕たちには、先生の人生や決断に口を挟む権利はないのだから。
 僕はただ、先生の未来が明るく、平坦であることを望むばかりだ。
 遠足の目標地点だと聞いている、みはらし台まで僕は山を上った。大人には造作もない。しかし、子どもをここまで連れて上ってくるのは、一筋縄ではいかないことを、僕もひとりの親として知っている。先生はすごい。だからやっぱり、元気でいらっしゃるうちは、先生を続けて欲しかったな。僕のわがままなのは分かってるけど。
 みはらし台からは、春霞に煙る神戸の街が見渡せた。

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