笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

布引の滝


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 力をもいれずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。
 
古今和歌集」 中島輝賢(編) 角川ソフィア文庫

 

 日本三大○○はいくつもあるが、日本三大神滝といえば、那智の滝華厳の滝、そして布引の滝なのだそうだ。
 前の記事で、次男の通う幼児サークルのお別れ遠足のことを書いた。僕はてっきり徳光院からみはらし台まで上るのだと思い込んでいたら、妻にこう言われた。
新神戸駅に集合って連絡きてるよ。そっち行かないんじゃない?」
 以前、どんぐり拾いの山登り遠足に撮影で同行した時には、第一高校側からアプローチして徳光院、みはらし台とめぐって下山した。てっきり、今回もそうだと思い込んでいたけれど、違うようだ。妻が言うには、滝を見てからみはらし台にぬけるんじゃないか、ということだった。滝とは、布引の滝の雄滝(おんたき)のことである。
 これはいかん、下見のし直しだ。行程の方向が変わると、撮影でレンズを向ける方向が変わる。背景が変わるし、撮影の足場も変わる。よし、ついでだ、滝も久し振りに見てこよう。

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 布引の滝は三つある。下流から順に、雌滝(めんたき)、鼓滝(つづみたき)、そして雄滝。雌滝は、私有地にあるため、見ることができない。鼓滝は、小さな観瀑台がついているのだけど、雑木が茂って見通せない。今日僕たちが目にすることのできる布引の滝は、雄滝だけだ。
 雄滝に向かって、石段を根気よく上る。石段の脇には、ちらほら石碑が建っている。これは布引の滝を詠んだ歌の歌碑で、山中だけでなく、生田川の下流の方までずっと並んでいる。知り合いの書道の先生の書による歌碑もあって、僕はこの歌碑を眺めるのが好きだ。しかし残念なことに、石が汚れたり風化が進んだりして、読み取りにくい。肉眼では読めないものもある。写真に撮ってコントラストと明度を調節して、何とか読める。もっとも、そこまでして読むことは稀だけど。まあとにかく、歌碑はかなりの数が設置されていて、それだけ布引の滝についての和歌が多く読まれ、記録されて現代にまで伝わっていることは事実なのだ。さすが三大神滝。

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 細い谷沿いの道を、すれ違う登山客と会釈を交わしながら進んでいくと、やがて、細かった谷筋がぱっと広くなって、ねじれたリボンのような瀑布とほぼ円に近い滝壺が現れる。これが布引の雄滝だ。
 分岐もなく滝壺に向かってまっすぐに落ちる滝筋は美しい。しかし申し訳ないが、華厳、那智に比べると、布引は見劣りする。落差が全然違う。僕は華厳も那智もこの目で見たことがあるけれど、なぜ布引がこの二つの偉大な滝と三大神滝などと並び称されるのか、ちょっと理解できない。僕の見たことのある滝の中からであれば、富山の称名滝の方がよっぽど雄大だ。布引は、小さい。美しいが、小さい。いや、小さいとは言えないのかもしれないが、少なくとも大きくはない。
 けれど、じっと眺めていると、不思議と心が鎮まる。滝というのは不思議だ。霊気がある。科学的にはマイナスイオンと言うのかもしれない。滝の側で胸いっぱいに息を吸うと、すっと雑念が消える気がする。そして、どうどうと流れ落ちる水の響きに耳を澄ませていると、轟音の幕の向こうに静けさが見える。不思議だ。
 布引が日本三大、と言われるほどの滝かどうかは分からない。分からないけど、やっぱりどこか神秘的な力を宿しているようには、確かに感じられる。昔の歌人はそれを敏感に感じ取ったに違いない。だから、これほど歌に詠まれたのだろう。

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 ところで、日本三大神滝は? と問われて、その三つ目に布引を挙げられる日本人はそう多くあるまい。しかし、布引の滝は、案外と海外からの観光客に人気があるようで、僕は季節に一度か二度はここに散歩にくるのだけど、外国人に度々「滝はどこ?」と呼び止められる。一番最近は、コロナ騒ぎが起こる前の去年の秋、シンガポールから来たというアジア系の観光客に英語で声をかけられた。英語で声をかけられはしたが、どうも英語も日本語も自由自在というほどではないらしく、僕は言葉で案内するのを諦めて、ついておいで、と先導した。先導しながら、互いにカタコトの英語で少し会話をした。その中で、「なんで滝なんか見たいの?」と尋ねたら彼女は、「だって有名よ。とってもきれいだって聞いたから」と応えた。
 へーえ、有名なんだ。僕はこの身近な滝が有名だってことさえ知らない。変な気分だった。
 僕はその時、用事があって下山を急いでいたので、滝へ行く道と新神戸へ降りる道との分岐で彼女と別れた。だから、彼女が滝を見て何と思ったか、僕は知らない。ふーんこんなもんか、と思ったかも知れないけど、でもできれば、霊気(あるいはマイナスイオン)や静けさを感じてもらえたらいいのにな。言葉では伝わらないものを、僕に代わって滝は伝えてくれただろうか。もし彼女が、歌のひとつでも詠んでくれたら、完璧だ。ケルアックの俳句みたいに、英語で構わないから。
 いつか、英語の歌碑がこの山のどこかに建ったら、僕はとても嬉しい。
 
/* 雌滝は、観覧可能になったようです。後から知りました。 */