笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

慰霊と復興のモニュメント


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 震度7 神戸崩壊
 
「読売報道写真 阪神大震災全記録」 読売新聞社(編) 読売新聞社

 

 小学校に通う娘が、「お父さんは地震の時は何してたの?」と尋ねてきた。どうも、学校の防災教育で、地震の時のことを調べてくるように言われたらしかった。普段忙しく暮らしていると、地震の頃のことなんて思い出しもしない。すぐには何を話すのが適当か分かりかねて、まずは返事代わりにこう言った。
「寝てたよ」
 地震の発生は早朝だった。娘は「ふーん」とうなった。娘がちょっと黙ったので、話はそれで終わるかと思ったら、もっと詳しく聞かせて欲しいとねだってきた。僕は記憶の糸をたぐり寄せながら、地震の時のエピソードをいくつか話した。電気も水もなくて困ったこと。寒かったこと。靴をはき外套を着たまま眠ったこと。失われた命の話はしなかった。まだ娘に話すのは早いような気がしたから。
 いくつかありきたりのことを話して終わりにしようと思ったら、娘がもっともっとと話をねだった。僕はちょっと意外に思いながら、少しずつ記憶を掘り起こし、娘にも伝わるように言葉を選んで話した。話しながら、僕もだんだんと地震の日の記憶をとりもどしていく。話し始めると、すらすらと言葉が出た。不思議だった。
 僕は地震のあった日、風邪をひいていて、高校を休むことにしていた。そしたら地震が起こって、風邪どころではなくなったけど、翌日にひどい熱が出て、寝込んでしまった。あれはひょっとしたら、インフルエンザだったのかもしれない。当たり前だが、看てくれる医者はなく、家族は地震のせいでてんてこまいだから、僕は放置された。三日寝込んだら動けるようになった。三宮の東遊園地に補給物資がきているというので、父と受け取りにいったら、公園にヘリポートができていた。あの冬はあんなに寒かったのに、東遊園地の南端にある噴水で誰かが髪を洗っていたのを見たことを、強烈に記憶している。
 話し始めると、次々と当時のことが思い出され、僕は夢中で話した。

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 17日には小学校の参観があって、僕も見に行った。授業では先生が子ども達に、地震について家で聞いてきたことを発表するように求めた。手が挙がり、何人かが発表をした。けど、僕があんなに話したのに、娘は授業で手も挙げなかった。僕は、ちょっとがっかりした。
 けれど、地震についての授業は娘に強い印象を残していたらしかった。震災の日が過ぎて数日経った頃、娘は急に「東遊園地に行ってみたい」と言った。
「震災で亡くなった方の名前を刻んだモニュメントがあるんでしょ? それが見たい」

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 東遊園地には娘と何度も行ったことがある。ルミナリエは毎年見ているし、あのあたりのフォトスタジオに七五三の記念撮影に行ったこともあった。その折に、娘の話しているモニュメントの近くを通れば、地震の話をちょっと口の端に乗せたこともあったと思う。けど今まで、娘が地震の話にくいついたことはなかった。モニュメントの話は、学校であらためて聞いてきたのだろう。娘の気持ちの中で、何か変化、あるいは成長があったのに違いなかった。

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 車で東遊園地に向かい、地下駐車場に車をとめる。運転しながら、僕は徐々に輪郭をくっきりさせていく記憶と向き合っていた。ガス漏れの強い臭気や、出火した自動車のタイヤが破裂する音、ちぎれた電線が炸裂させる青白い火花。火災現場に野次馬で集まった中にいた年配の男性が「まるで戦争だ」とつぶやいた一言や、配給、給水車、湧き水、人の安否についての不確かな噂話。
 どうやら、僕の小学校の同級生が地震でひとり、亡くなっているらしいことを思い出した。ひょっとしたらその子の親だったかもしれない。二階建ての家に住んでいて、一階で寝ていて、地震で二階部分が落ちて一階を押し潰したらしい。僕はこの話について、真偽をしらない。人づてに又聞きの格好で聞いたのだ。地震の時は、本当に情報がなかった。ほんの数百メートル圏内に住んでいる知人のことさえ分からなかった。もし亡くなっているのなら、そのモニュメントのどこかに名前が刻まれているはずなのだけど、僕はまだ彼女の名前を見つけられない。ひょっとしたら亡くなったという話は誤報で、まだどこかで生きているのかもしれない。地震のせいで地域の人は散り散りになってしまったから、確かめることもできない。

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 僕自身は季節に一度くらい、モニュメントの中に入って手を合わせることにしている。でも家族と来たことはない。東京出身の妻にとっては、地震は時間的にも距離的にも遠い出来事だった。子どもたちにとっては、教科書の中の話でしかない。一緒に来る意味はないと考えていた。だから、娘がこんなにも地震に興味をもったのが意外だった。僕はどんな気持ちで娘の関心を受け止めればいいのか、正直よく分からなかった。でも、とにかく行ってみよう。ここから先のことはもう、娘自身に任せるしかない。
 入り口のところで一礼してから、僕は娘の手を引いてモニュメントの地下へと入る。
 亡くなった被災者の名前が刻まれたプレートとまだ新しい献花の前に、娘は無言で立ち尽くした。僕は娘の横顔をじっと見ていた。いつもは目新しい場所に来るとはしゃいでばかりいる娘の、今日ばかりは真剣なまなざしが新鮮だった。言葉はもう交わさなかったけど、娘が何かを感じ取ったらしいことだけは確かだった。

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 モニュメントを出たところで、たくさんのカメラ機材を並べている人がいた。写真家のイルコ・アレクサンドロフさんだった。僕が会釈すると、にっこり笑ってくれた。娘が誰かと尋ねるので、「写真を撮るのがすごくうまい人だよ」と教えた。
 帰りの車の中で娘が笑いながら言った。
「お父さん、よかったね」
「何が?」
「写真の上手な人に会えたから」
 その日、娘とはもう地震の話はしなかった。娘はいつもの夜と同じように、夕飯に出た食事の嫌いな食材にぶーぶーと文句を言い、弟たちと遊んだり喧嘩したりし、風呂に入ってヤクルトの空き容器でたっぷり三十分も遊び、半べそかきながら宿題をし、眠った。
 娘が寝た後、僕たちが東遊園地に行ったことについて「どうだった?」と尋ねた。僕は何とも応えようがなくて「イルコさんを見たよ」と言った。
「それ、誰?」
 妻は呆れ、興味を失って、テレビを見始めた。一七日には震災追悼行事のことばかり報じていたニュースが、大臣を辞した議員の会見に批判的なコメントを添えて伝えていた。

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 経験しなくては分からないことがある。経験しても分からないことがある。僕だっていつも地震のことを気にかけて生きているわけじゃない。こんな折でもなければ、きっと思い出そうともしないだろう。だから大事なのは、時々でいいから、想像力を働かせることと、興味をもち、それを隠さないこと、そして、きっかけがあったらそっちへ向かって手を伸ばすこと。今日、ちょっと立ち止まって過去を振り返るチャンスをもらったのは、娘よりも僕だったんじゃないか。僕はいつものように布団からはみだして寝息を立てている娘の頭をそっと撫でて彼女に感謝した。