笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

「苦楽園口駅」 アルハンブラの思い出

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 先生はにこにこしながら僕に、「昨日の葡萄はおいしかったの」と問われました。僕は顔を真っ赤にして「ええ」と白状するよりしかたがありませんでした。
 
一房の葡萄」 有島武郎 ハルキ文庫

 

 僕は甘いものが苦手だ。
 もちろん、全然食べないってわけじゃない。訪問先でコーヒーやお茶に添えて出されれば口にするし、世辞のひとことも言う。子どものおやつタイムにグミやビスケットを分けてもらえば笑顔で食べる。でも、自分で自分のために甘味を求めることはしない。いくつかの例外はあるけれど。
 その例外のひとつが、苦楽園にあるハイジというお店の、アルハンブラというお菓子だ。これが、うまい。いくらでも食べられる。
 僕がが子どもの頃、実家に訪れるお客の中に、定期的にこのアルハンブラを手土産に持ってきてくれる人がいた。もちろん僕に持ってきてくれるわけではなくて、祖父の手にまず渡るわけだが、僕の甘味嫌いは多分祖父からの遺伝で、祖父は客人が帰った後にそれを祖母や母に渡す。彼女らは、甘味嫌いの僕がアルハンブラだけは食べると知っているから、箱詰めのままアルハンブラは僕の手元にやってくる。箱の中にはレンガみたいに生真面目な四角をしたアルハンブラが五つか六つぐらい入っていて、僕はたいてい、二三日のうちに箱を空にした。
 いくつか味のバリエーションがあるけれど、僕の好きなのはやはり、スタンダードなチョコレートのアルハンブラだ。冷やすと歯ごたえが感じられるくらい固めのチョコレートクリームが、天国のレンガみたいに軽くて柔らかいスポンジにサンドイッチされている。かぶりつくと、まず前歯がふわりとスポンジに沈む。なかなか噛み切れないな、なんて思っていると、やがて歯の先にチョコレートクリームがあたる感覚があり、上と下の歯がケーキの真ん中で出会ったところで、やっとアルハンブラは僕の口の中に転がり込む。スポンジとクリーム、食感と風味の違うふたつのチョコレートが、舌の上で踊り出す。たまらない。甘みと苦みのバランスがちょうどよく、甘いものはコーヒーがないと食べられない僕だけど、アルハンブラに関してだけは、コーヒーは邪魔だ。立て続けに口に放り込んでいくと、僕はいつの間にか次のひとつに手を伸ばしている。気がつけば、そこにあるだけのアルハンブラを僕はすっかり平らげてしまう。
 祖父が死んでしまって、その客人ももう実家にはこない。もともと甘味嫌いだから、僕も積極的にケーキ屋に通ったりはしない。横浜に長く住んだこともあって、僕はしばらくアルハンブラを口にしていなかった。
 妻がこのアルハンブラの味を知った。デパートのスイーツフェアとか、新幹線の土産物売り場の催事とかで買ったんじゃなかったかな。たまたま売っているところへ通りがかって、おいしいよと勧めてみたら妻もアルハンブラを気に入ったらしく、時々、僕が仕事で子どもも学校や園に出払った後、わざわざハイジまで買いにでかけるらしい。ハイジは今、苦楽園にある。
 

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 ハイジは昔、水道筋にあって、僕の実家からそう遠くはなかったから、食べたければいつでも買いにいけた。それが知らぬうちに西宮の苦楽園に移ってしまった。だから、妻もそう頻繁に買いにいけるわけではない。先だって、たまたま僕が苦楽園に行く用事があって、妻にそう言ったら、「じゃあアルハンブラ買ってきて」と頼まれた。
 

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 阪急電車に乗って、大阪方面に向かう。西宮北口駅のひとつ手前に桜で有名な夙川駅があり、そこで甲陽線に乗り換えて一駅北へ行くと、苦楽園駅だ。
 駅前に小さなロータリーがあり、そこからアーケードのない商店街がまっすぐ伸びている。西宮市は、近年再開発が進み、町並みがとてもきれいになった。商店街には、おしゃれなブティックや落ち着いた雰囲気の喫茶店が軒を連ねている。その合間合間に、昔から商売をしているらしいレトロなお店が顔をのぞかせている。八百屋さんがあって、シャッターの前にすごく洒落た改造をしたカブが止まっていて、それがこの街によく似合っていた。商店街には垂直に合流してくる路地がいくつもあって、そこから車が商店街の方へ合流してくるのだけど、僕がまだ交差点までは少し距離があっても、僕がまっすぐ歩いて行こうとしているのを見つけると、どのドライバーさんもきちんと停車して僕が通り過ぎるのを待ってくれていた。いい街は、いい人がつくる。住人の人柄が街にあらわれていると感じた。
 

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 携帯の画面を確かめながら探していると、関西スーパーのむかいにハイジの暖簾が出ていた。ショーケースをのぞくと、あったあった、アルハンブラ。たっぷりある。いろんな種類がある。本当は全種類くださいと言いたいところだが、そうすると家で子ども達が取り合いをするので、スタンダードなチョコレートを家族の人数分と、あと妻にひとつ余分に求めた。
 用事を済ませて帰宅し、食後にアルハンブラの包みを開けて、家族で食べた。食後にはコーヒーを淹れるのがいつもの習慣だけど、今日はいらない。
 前歯をスポンジに立てると、やわらかいのに弾力のあるスポンジはなかなか切れない。スポンジは昔より少し、軽さが増したかな。そしてチョコクリームまで噛んで、やっとアルハンブラは僕の口の中に転がり込む。うん、うんまい。味は今風にアップデートされているけれど、やっぱりうまい。子どもたちも喜んで食べた。
 僕はあっという間にひとつ平らげている。残っているもうひとつに、手をのばしかける。おっといけない、これは妻の分だった。ゆっくりと味わってアルハンブラを口に運んでいる妻に「分けて分けて」と子どもが群がるのだけど、今日の妻はにっこり笑うだけで、最後の一口をぽいと自分の口に放り込んだ。

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