笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

「橙が実るまで」を読みました。

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 いつかひとりで花火を見る日が来るかもしれない。そのときは、きっと、記憶に身をゆだねながら見るに違いない。

「橙が実るまで」 田尻久子(文) 川内倫子(写真) スイッチ・パブリッシング

 

 図書館をよく利用する。ちょっと読んでみようかな、とか、高くて手が出ない、というような本をよく借りる。近所の図書館にない本でも、市内や近隣自治体の図書館にある本なら、取り寄せて借りることもできるので、ありがたい。
 人気のある本は、予約して待つことになる。半月ぐらいで読める本もあれば、何年待っても順番の回ってこない本もある。長く待つことになると時々、なぜその本を読む気になったのかを忘れてしまったり、そもそも予約していたことを忘れてしまったりすることがある。そして、不意に図書館から「予約の本が届きました」と連絡がきて、さてそんな本を頼んだっけ? と首をかしげる。でも、サプライズのプレゼントでも届いたかのような気になって、そういうのがちょっと嬉しかったりもする。

 田尻久子さんという方の書いた「橙が実るまで」という本も、そういうサプライズ的に届いた本だ。僕は、この田尻さんという人も「橙が実るまで」という本のことも全然知らない。だから多分、写真を撮った川内倫子さんのつながりで予約をしたのだろう。
 川内さんの写真は、とても静かで、詩的だ。暗喩がそっと忍び込まされた作品の意味に気づくと、心がじわりとする。
 長く届かなかった本なので、多分人気のある作品なのだろう。予約していることを忘れるような本は、もう僕自身が読む意義を見失っている事も多く、ざっとページを繰ってすぐに返してしまうこともあるが、川内さんの写真が相変わらず美しいので、読んでみる気になった。
 エッセイというのだろうか、回想録というのだろうか。おそらくは著者の田尻さんが、自分の半生を振り返って綴っている。フィクションなのか事実なのかは分からない。多分、事実なんだろうと思う。でも、そのことを誰も保証してはくれない。その宙づり感にどきどきしながら読んだ。縷々と綴られている田尻さんの人生、なかなかハードだったようだが、淡々と語られるので、どこかもうそれを赦しているような、認めているような、それでいて心の根っこのところで赦せていないんじゃないかという感じがして、田尻さんの気持ちをどう汲めばいいのか、最後まで僕には決められなかった。
 僕も、自分の子ども時代を振り返って、そんな気持ちになることがある。そんな気持ちって言うのはつまり、もう昔のことだから忘れも赦していいという気持ちと、でもやっぱりどこか引っかかるところがあって、そんなことを思い出すこと自体実は忘れても赦してもいないんじゃないかと嫌になる気持ちが、ごちゃまぜになって湧いてくるような、そんな気持ち。過去のことを、とっくに理解も整理もして納得している気持ちでいる(だってもう大人だから)のに、実は未だに納得も浄化もできていなくて、そういう子どもっぽさをひきずっている自分にうんざりする気持ち。そんなことは言いたくも書きたくもないのに、言わずにいられないし書かずにいられないし、書けばどこか気持ちの落としどころが見えるんじゃないかと思って書き続けたけど、実際には書けば書くほど心は密林の奧へ進んでいってしまって、帰り道を見失って困ってしまう。そういう、気持ち。
 王様の耳はロバの耳のお話が教えてくれるように、心の中を吐き出すことは、一種のカタルシスをもたらす。でも、本当に言いたくてたまらないのに、誰に言ってもどにもならないようなことって、吐いても吐いても吐き出しきれなくて、むしろ嘔吐感が高まっていくことがある。その息苦しさが、読んでいる間ずっとあって、辛かった。

 田尻さんという方、僕よりひとまわり年上で、本屋さんと喫茶店を営まれているらしい。熊本にお住まいのようだ。熊本、行ったことないなあ。どんなところなんだろう。スーパーカブを作っているホンダの工場があることぐらいしかしらない。熊本といえば、あと・・・くまモン、熊本城、球磨川・・・思いつくのはそんなものだろうか。そして、田尻さんが住んでいる。
 子どもができてから、自分だけで旅に出ることをしなくなってしまったけど、もし一人旅に出るチャンスがあったら、熊本に行ってみようかな。そして田尻さんの喫茶店を探してみようかな。もし可能であれば、お話もしてみたいと思う。嫌がられなければいいな。僕は長話してしまう質だから。
 なんてことを思いながら、本を閉じました。