『臥遊録』に「冬山惨淡として眠るがごとし」とあるのによって、季語として使われる。落葉しつくした山々が、冬日を受けて、静かに眠っているように見えるのをいう。春の「山笑ふ」、秋の「山粧ふ」とともに、擬人法による表現である。
現代俳句歳時記 冬 角川春樹(編) ハルキ文庫
慢性疲労症候群の症状にふたつあって、ひとつは原因不明の疲労感、もうひとつに、やはり原因不明の腹部の緊張感。疲労感は随分いいのだけど、腹部のハリ感は時々やってきて、すると不眠やイライラ感を引き起こす。
後者の症状が強く出る時は柴胡加竜骨牡蛎湯(サイコカリュウコツボレイトウ)という薬を頓服的に飲む。しかし、いつもその薬が必要なほど腹がキュッと締まる感じがするかというと、「薬に頼るほどでもないな」という時もあり、またこの薬、飲み続けると肝臓に負担がかかるそうで、レギュラーで毎日飲む人には季節に一度、血液検査が必要ならしい。なので、みぞおちあたりに違和感を感じても、飲まずに済ませる時がある。それで問題なければいいのだが、症状が出ている以上はやはり不調なのである。判断を誤ると、不眠を引き起こして、布団の中で悶々とすることになる。
そんなことをドクターに相談したら、以前服用していた補中益気湯(ホチュウエッキトウ)なら柴胡加竜骨牡蛎湯と同じ成分が入っていると教えてもらい、今飲んでいる黄耆建中湯(オウギケンチュウトウ)から元にもどしてみましょう、ということになった。
僕は、こういうケースでは世間で最も一般的に処方されている補中益気湯がどうにも効果を発揮しないので、似たような効果をもつ黄耆建中湯に変えてみたら効いたという経緯があって、ずっとこちらを飲んでいた。まあ近頃は疲労感もほとんど感じないし、補中益気湯に戻しても大丈夫かな、と思って薬を変えたのだが、変えてみると、とたんにずどんと重い疲労感が戻ってきてしまった。
もうほとんど治ったような気でいたけど、まだまだなんだな。
今は、薬を黄耆建中湯に戻して過ごしている。これなら大丈夫。だが、薬に頼らなければならない体であることは確かだということが分かって、気持ちはやっぱり重い。
とにかく無理をせず、ゆっくりと体力をつけていくしかない。楽器を吹いたり、中学校の吹奏楽を教えに行ったり、資格の勉強をしたりしながら、あいている時間はなるべく体を動かして過ごすことを心がけている。
中学校のアンサンブルコンテストも終わって、ちょっと気が楽になったので、久しぶりに布引の滝を見ようと、山に登った。
冬の山といえば、「山枯る」「山眠る」の季語から想像されるように、しんと静まり帰っているイメージだが、上っていると案外、音に満ちあふれている。乾いた木の実が落ちる音、鳥の声、水の流れ、すれ違う登山者同士のあいさつ。
全然静かじゃないじゃん、と頭のなかで文句垂れながら上ったが、滝のあたりまで来た時に、ああこれは、眠っている山のイビキなんじゃないかという考えがうかんで、ふっと霧が晴れるような思いがした。
とにかく、くよくよ悩んでいても仕方がない。やるべきだと信じられることを、信じたままにやってみよう。どうせいつか死ぬのだから、それまではできるだけ、納得のいくことをやりながら生きていこう。
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山が高鼾 もぐら