笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

2021年、最初の須磨

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 去年の年末あたりから少しバタバタしていて、今もちょっと落ち着かない日々が続いている。そろそろ須磨に行きたいなと思っていたのに、タイミングがあわなくて中々来られなかった。やっと暇を見つけて、少しだけ須磨に立ち寄った。
 今年になって最初の須磨だ。でも、ひょっとしたら今年最後かもしれない。というのは、転職が決まって、四月から少し、忙しくなるのだ。できれば年度内にもう一度くらいは来たいと思っているけど、どうなるか分からない。ひょっとしたら、以外と余裕があって春以降もここに立ち寄ることはあるかもしれないが、今はちょっと分からない。

 横浜から戻った後、気晴らしによく通ったが、これで最後かもしれないと思うと、感慨深かった。ここ数年で、須磨の様子もずいぶん変わった。砂浜が広がるだけの光景に変化はないように思うかもしれないけど、そうではない。過去は下へ、下へと沈み込み、その上に微分的に薄い今が間断なく堆積していく。未来は気圏の彼方にある。そう思って見上げた空だけは、いつも変わらない。
 本当に変わらないのだろうか。いや、実は変わっているのかも知れない。本音を言えば、まさかこのタイミングで転職をすることになろうとは思わなかった。いつかは今の仕事を離れようと決めていたのは確かだけど、このパンデミックの最中に転職が決まるなんて。パンデミックのせいで転職をするわけではない。でも、去年一年の大騒ぎで、僕の考え方も少し変わったし、周囲の状況も変化したから、全然影響ないってわけではないけれど。

 いつもそうするように、駅前のセブンでコーヒーを二杯買った。それを石段に座って飲んだ。それから、写真を撮りながら、砂浜をぶらぶらと歩いた。
 そろそろ帰ろうとして砂浜から歩道に戻ろうとしたとき、砂に埋まったボールを見つけた。野球のボールだろう。誰かがここでキャッチボールでもして、そのまま忘れていったのだろうか。砂に埋まってしまったのかも知れない。まだほとんど砂の中だが、頭のところだけやっと姿を見せている。その姿が、砂地獄からやっと這い上がってきた生き物のようだった。
 岩井俊二の映画(「花とアリス」だったかな?)に、砂浜でなくしたトランプのカードが不意に見つかるシーンがあって、僕は唐突にそれを思い出した。僕は須磨の砂浜で野球をした覚えはないが、そのボールは、僕がずっと前になくした何かであるような気がした。そう言ったら、物語を気取りすぎているだろうか。でも僕は、驚いた表情の蒼井優のことを思い出しながら、ああやっと見つかった、とでも叫びたい気分だったのだ。

 そのボールの写真を一枚撮り、でも触れずに、僕はその場を去った。今、そのボールのことを思いながらこのブログを書いている。あのボールはどうなっただろう。また砂に沈んだだろうか。それとも慌てて探しに来た持ち主の手にかえっただろうか。どちらであるにせよ、僕がそのボールをもう一度見ることはないだろう。僕はもうあまり砂浜には行けないだろうし、仮にいますぐ探しに行ったとしても、あの大量の砂の堆積の中からボールをもう一度見つけられるとは思えない。あの、夢の化石みたいなボールを。

 

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