笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

コロナウィルス⑤(海水浴)


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 彼女は決して美人ではなかった。しかし、「美人ではなかった」という言い方はフェアではないだろう。「彼女は彼女にとってふさわしいだけの美人ではなかった」というのが正確な表現だと思う。

 

風の歌を聴け」 村上春樹 講談社

 

 僕は時々、須磨海岸須磨海岸に脚を運ぶ。季節ごとに二、三度だろうか。ここには知人の思い出が沈んでいる。それを思い出しながら波打ち際を散歩し、記録と気晴らしを兼ねてスナップをするのだ。駅前のコンビニで、冬はコーヒー、夏ならビール(その後の予定があるときはビールテイスト飲料)を買い、それを飲みながら一時間ぐらい過ごす。

 しかし、一年のうちこの盛夏の一ヶ月間だけは、それができない。というのも、海岸が海水浴場として使用されるからだ。毎年、砂浜には海の家がずらりと軒を並べ、砂浜は海水浴客でごった返す。水着姿の海水浴客がひしめいている中を、カメラを持って歩くことはできないし、第一、しっとりと思い出にふける空気でもない。だから、海開きが行われる頃から盆が終わるぐらいまでは、僕は須磨に来ないのが通例だ。

 でも、今年は事情がちょっと違う。
 もちろん、コロナウィルスのせいだ。感染拡大防止のため、今年は海開きが行われなかった。なら、いつも通りの須磨行脚ができるのだろうかと思って、僕は海に向かった。


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 砂浜に隣接している駅から、海岸を見下ろす。不思議な光景だった。砂浜はロープでいくつかに区切られ、それぞれのエリアを制服姿の監視員が見守っている。いつもは海の家が長い長い壁をつくっている場所には何もなくて、監視員の詰所だけが建てられている。砂浜と通路の境目には、重機が眠っていて、七月の長雨で流れ着いたのであろう流木とゴミの小山があった。
 砂浜に置かれた、感染防止を訴える看板に異様な存在感が感じられる。海水浴客はまばらだが、いないというわけでもない。はしゃいだ雰囲気は感じられない。彼らは静かに、それぞれの砂浜で過ごす時間を楽しんでいるが、例年の海水浴場の、あの浮かれた空気はなくて、憂いを含んだオフショアの風が肌を撫でていくのを、じっと見送っていた。

 まるで秋のようだった。こんな夏の須磨海岸を、僕は知らない。夏がまるごとすっぽぬけて、どこか遠くへ投げとばされてしまったようだ。僕は駅前のコンビニで買ったオールフリーを砂浜と道路を隔てる石段に座って飲み、それから波打ち際を少し歩いた。海の色も、心なしか濃いような気がする。
 僕は、どちらかといえば騒々しい夏の海よりも、しっとりと物静かな秋の海の方が好きだが、でもこれは、何か違う気がする。あるべきものがないと感じる。不自然だ。季節は順番通りに巡らねばならない。好む好まざるにかかわらず、季節は順番通りにやってこなければならないものだ。僕はそう思う。
 ルーティン通りに須磨を訪ねられたのは嬉しいことだけど、でも来年はいつも通り、騒がしい須磨海岸を思いながら、秋の訪れを待つ夏が来て欲しい。飲み干したオールフリーの空き缶をほとんど空っぽのゴミ箱に放り込んで、看板にプリントされたアマビエにそう願わないではいられなかった。


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