笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

夢と親子丼


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「本当は私あの学校に行きたくなかったの」と緑は言って小さく首を振った。「私はごく普通の公立の学校に入りたかったの。ごく普通の人が行くごく普通の学校に。そして楽しくのんびりと青春を過ごしたかったの。でも親の見栄であそこに入れられちゃったのよ。・・・そんなの冗談じゃないわよ」

 

ノルウェイの森」 村上春樹 講談社文庫

 

 近所に、公立と私立の高校がいくつか固まって建っているところがある。先だってそのあたりを散歩していたら、中学生とその親御さんがたくさん歩いていた。多分、推薦の面接とか、受験の下見とかなのだろう。親子ともに、どことなく緊張した面持ち。その日に彼らが尋ねていた学校が、第一希望なのか滑り止めなのか、それは分からない。でも多分、彼らなりに考えて選んだ学校なのだろうから、いい結末に落ち着いてほしいなと、他人事ながら彼らの幸せな未来を祈った。
 僕が今年お世話させてもらった中学の三年生たちも、ひょっとしたら今頃、どこかの高校を尋ねているかもしれない。僕は無意識に、彼らの姿を目の前の親子に重ねていたと思う。吹奏楽の強豪校に行きたいと言っていた子もいたし、インテリアデザインの勉強をするために工業系の高校に進学するときいた子もいた。みんなそれぞれに夢があった。そしてその夢のために努力していた。努力が実ってより大きな幸せをつかんで喜ぶ姿を見せて欲しいなと僕は願っている。もちろん、悔し涙が流れることもあるだろうし、それを後になって振り返ればいい経験だったってこともあるけど、でやっぱりうれし涙の方がいいじゃないか。
 夢をもっている人は美しい。ただそのためだけに輝いて見える。夢なんて一度ももたせてもらえなかった僕だけど、大人になった今となっては、夢のある人を妬んで恨みごとを言ったりはしない。ただ、そのまぶしさに目を細めるだけだ。

 目の前に、夢へと続いていく道が選択肢としてあり、その道へ進むための努力ができることは幸せなことだ。夢があること。その夢へと続く道があること。その道の奥に進めるかどうかはともかくとして、少なくとも道の入り口は塞がっていないこと。僕の場合は、そのすべてがなかった。最初から夢をもつことは許されていなかったし、仮にあったとしても、そのための道はすべて入り口で塞がっていた。傍目にはそうは見えなかったかもしれないが、実際にはそうだった。そういう八方塞がりの人生というのが、この世にはある。もちろん自分自身の弱さも、道を塞ぐバリケードのひとつだったけど、その手前にはもっと強固で侵しがたい壁があった。夢という美しい宝の地図は、誰もが無条件にもてるものではない。

 近頃、そんな考えが訳もなく頭の中を巡り巡っているのは、指導に行っている吹奏楽部の部員の、ひとりの男の子と交わした会話がきっかけかもしれない。
 彼は、活発な生徒ではない。暗いというのでもないかわりに、はしゃいで誰彼構わず声をかけるようなシーンは見たことがない。心がけて人と距離をおくようなこともしないが、どちらかと言えばひとりで黙々と基礎練習したり曲をさらったりしている姿を見ることが多い。暗いってことはないけれど、明るく振る舞う相手は選ぶタイプだと思う。ちょっと僕に似ているかもしれない。その彼が、練習の後なんかにぼーっとしている僕を見かけると、なぜだか話しかけてきてくれる。音楽の話はあまりしない。その代わりに、音楽以外の習い事のことや、自分の作った料理の話なんかをしてくれる。
 先だっては親子丼にチャレンジしたらしい。普通の男子中学生は、理由もなく親子丼を作ったりしない。「料理、好きなの?」と尋ねると、彼ははにかんだ笑顔でうなずいた。そして、「料理人になれたらいいな」みたいなことを小さな声で言った。
 その照れくさそうな顔が、僕には太陽よりもまぶしかった。

 大人は、大して考えもせず若人に「夢をもて」とか「人生は自由だ」なんて言う。少なくとも、そういう風に見える。その大人が、どんな人生を送ってきたのか、どんな夢を実現させたのか、あるいは実現させられなかったのかあるいは道半ばに諦めたのか、僕は知らない。知らないけど、気軽にそういうこと言うなよ、って僕は思う。いやそりゃさ、気軽じゃないのかもしれない。熟慮に熟慮を重ねて、やっぱりそう言ってあげたくて仕方なくて、そう言うのかもしれない。しれないが、やっぱり、ちょっと慎重であってほしいなあと僕は願う。だって、そんなことサクッと言われたら、絶望しちゃうじゃない。夢をもつことさえ許されなかった僕としては。
 そう書いておきながら、じゃあなんて言えばいいんだよ、っていう苛立った声に、僕は応えられない。この件について僕は、不正解の基準はもっているけれど、正答例を知らない。誰か知っていたら教えて欲しい。
 彼が夢の告白を遠回しにしたとき、僕はなんと返事をしただろう。確か、下校間際の教室の騒がしさに隠れるようにして、「なれるといいね」とか「頑張れよ」みたいなことを言ったと思う。他に言いようがなかった。やっぱり結局、そう言うしかないんだろうか。ちょっと悲しかった。
 で、無性に親子丼が食べたくなった。食べたからって何か嫌な思い出がひとつ消えるわけじゃないけど、腹に温かいものを入れておくのは、いいことのような気がした。けど、まだ食べてない。いつ食べようか。僕はそのタイミングをはかっているところだ。