笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

楽器決め


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 嘘だとお思いか?
 ならば、私が、吹いてやる。
 私の肺は空気を満たし、私の内腔はまっすぐにチューバへと連なって天へと向いたベルまで一本の管となり、大気は音にかわって世界へと放たれるのだ。

 

「チューバはうたう」 瀬川深 筑摩書房

 

 花の種子は、自分の芽吹く場所を選べない。ただ、落ちたところに根を張り、命続けばいつか、美しく花弁を開くだけだ。

 夏頃から、市内の中学校の吹奏楽部に時々おじゃまして、指導のお手伝いをさせていただいている。今年はコロナ騒ぎのせいで、神戸の公立学校は六月頃にスタートした。僕は、七月に初めてその中学校にお邪魔したのだけど、その日は新入部員の楽器決めをしていた。翌週伺った時には、もう新入部員の楽器が決まっていて、パートごとに分けられ、先輩から楽器の持ち方や音の出し方、片付け方なんかを教わっていた。
 吹奏楽部での楽器との出会いは、運命だ。希望通りの楽器をあてがわれることもあれば、思いもよらなかった楽器を任されることもある。フルートやクラリネット、サックス、あとトランペットのような高音寄りの楽器は希望者が多いが、チューバやファゴットユーフォニウムみたいな低音よりの楽器を最初から望む人はあまりいないだろう。最近はユーフォニウムを吹く吹奏楽部員を主人公にしたアニメがあるせいで、ユーフォニウムの希望者は以前よりは増えたかもしれないけど。

 一年生にひとり、ふてくされている女の子がいる。
 打楽器の奏者だ。僕が声をかけても、ろくに返事もしない。顧問の先生にも同じような態度である。先輩ともほとんど声を交わさない。とりあえずスティックは振っている。でも、楽しそうには見えない。
 顧問の先生によれば、彼女は本当はクラリネットを希望していたのだそうだが、割り振りの結果、希望通りにはいかなかったようだ。別に珍しいことではない。また、そういう運命の路地に入り込んだ部員が、拗ねてしまうことも珍しくはない。僕としては、部に残っているだけエラいと思う。気に入らなければ辞めてしまうという選択肢もあったはずだ。どういう思いで彼女が部に残ったのか、今のところその気持ちを彼女に質すことはできないが、それでも音楽を続けたいという情熱の火が消えなかったということだけは確かだと信じていいだろう。友達がいるから仕方なく続けているというタイプでもなさそうだし。

 ここでドロップしなかった者は大抵、三年間やり通すものだ。高校に上がったときに希望の楽器へ配属変更されることを夢見て耐えると覚悟を決めて、今の楽器を憎み続ける場合もあるが、どちらかといえば、最初は嫌で仕方なかったその楽器を続けているうちに楽しみに気づいてしまう、というケースの方が多少多い気がする。

 打楽器は楽しい。僕は管楽器奏者だが、先だって自分の所属しているオケでマーラーの「大地の歌」を演奏した時、打楽器奏者が足りないので、降り番だった僕がトライアングルとタンバリンをたたいた。難曲だったので苦労した。しかも、自分の放つたった一つの音の、その責任の重さが、打楽器の場合は半端ではない。けどだからこそ、打楽器は楽しい。指先が震えるほどの緊張感を乗り越えていく感覚は、管楽器奏者がソロに挑む感覚に似ている。その緊張感が、一曲まるまるを通して続くのだ。失敗した時の絶望感は叫びだしたくなるほどだが、演奏がうまくいったときの達成感も、また半端ではない。
 今年はコロナの影響で、コンクールはないし、学校行事も軒並み中止だ。しかし、ようやく第二波も収束傾向がみえてきて、どの学校も秋には、三密を避ける工夫をしながらひっそりと発表会をするらしい。僕のお邪魔している学校もそうだ。あとひと月ほどで、ちょっとした発表会が予定されている。彼女にはその発表会で、打楽器を演奏する楽しみを知って欲しいな。希望通りの楽器ではなかったかもしれないけれど、そのその楽器にしかない楽しみを感じてほしいな。思い通りにいかなかった失望感を乗り越えられる、大きな楽しみを。

 花の種子は、自分の芽吹く場所を選べない。ただ、落ちたところに根を張り、命続けばいつか、美しく花弁を開くだけだ。
 僕は、乾いて不毛な崖の中程に一輪の美しい花が咲くのが、楽しみで仕方がない。