笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

コロナウィルス②


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 この年のクリスマスは、福音の祭りというよりも、むしろ冥府の祭りであった。空っぽで燈火のない店、ショーウィンドーに飾られた模造チョコレートあるいは空の箱、暗い顔つきの人々を乗せた電車など、何ひとつ過去のクリスマスを思わせるものはなかった。・・・すべての人々の心には、もう、きわめて古く陰鬱な希望、すなわち人々が甘んじて死におもむくことを妨げる単なる生への執念にほかならぬところの、まさにその希望だけしかいだかれる余地がなかったのである。
「ペスト」 アルベール・カミュ/宮崎嶺雄(訳) 新潮文庫
 
 新型コロナウィルスが流行し始めてから、まるで大晦日が何日も続いているような静けさが街を覆っている。車通りも明らかに少ない。街は、必要最低限の活動以外の動きの一切を停止してしまったように見える。不気味だ。僕はもう人生の折り返し地点をまわるぐらいの年齢だけど、今までにこんな三宮の街を見たことがない。
 いや、三宮だけじゃない、僕が日常を送る街のどこへ行っても、とにかく静かで、活気がない。無気力が街を覆っている。そんな風に感じる。

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 東北の大震災の後、放射能汚染のリスクが高まった時に、街から一斉に外国人観光客の姿が消えた時期のことを思い出す。あの頃、僕はまだ横浜で暮らしていた。
 ちょうど、仕事を辞めて神戸に戻る段取りを始めた頃だった。三月に横浜で地震にあい、四月には退職していた。五月から七月まで、親しかった上司に誘われて別の職場で少し働く約束をしていたけれど、四月はまるまる空いていたので、僕はひょっとしたら人生最後かもしれない関東での生活を楽しむことにしていた。東京での最後の演奏会もいくつか抱えていたから、その練習のために連続した日程をとることはできなかったのだけど、僕は春の間じゅう、ツーリング三昧だった。三浦、鎌倉、箱根、伊豆、房総半島・・・そして日光。
 日光へのツーリングの日程は、二泊三日。一日目は長野の穂高に泊まって、それから金精峠へ向かう。本当は日光に行くのがメインではなくて、赤城山の北西にある金精峠のバットレスダムを拝むのが目的だった。予定通りに旅行できれば、午後の明るいうちには日光に到着できる予定だったのだけど、僕は大変なミスをした。金精峠は冬期通行止めで、僕はそれを知らなかったのだ。日本アルプスの冬は長くて、金精峠への道が開通するのは昭和の日を過ぎてから。僕は、雪景色の道路を塞ぐ通行止めのバーの前で、金精峠を諦めるしかなかった。そして、金精峠を通れば三〇分もかからずに日光へ行けるのに、僕はぐるりと赤城山山頂をまわり、三時間かけて大谷川の川岸にあるユースホステルにたどり着いた。
 間違えて長野に戻ったかと思うほど、日光は静かだった。それは、僕のイメージする日光とも、知っている日光とも、あまりに違っていた。原発事故のニュースのせいで、観光客が少なくなっているという話は知っていたけれど、それにしても静かだった。
 「いらっしゃい」と僕を出迎えてくれたユースの奥さんの声にも張りがなかった。「ずいぶん静かですね」と宿泊名簿に記帳しながら声をかけると、「春はいつも満室なんだけど、地震のせいで、今日はお客さんと、もう一人、仕事で毎年来てる常連さんのふたりしかいないよ」と奥さんはしょぼくれた声で応えた。
 そのユースで一泊した翌朝、東照宮を訪れた。参拝客は、僕の前にひとりいたきり(ユースに一緒に泊まった人ではないけど)で、僕の後には誰も入らなかった。たった二人の参拝客の数十倍もの人数の宮司さんと巫女さんが、境内のあちこちで、幻でも見ているようかのように放心して僕が通っていく様子を眺めていた。

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 その無気力な表情と東照宮を覆う空気感が、今のコロナウィルスの混乱と重なる。
 そういえば、ここ一ヶ月ほど観光客の姿を見ない。コロナコロナと騒ぎ始めた最初の頃にはまだ、中国語を話す集団を時々見かけたけれど、この一週間ほどは中山手あたりに大きな観光バスが二重駐車している光景も消えた。かわりにパトカーが目立つ。いや、ひょっとしたら以前からこれぐらいパトカーも走っていたのかも知れない。今まで目立たなかっただけで。
 こういう情勢だから、あれもこれも自粛ムードになるのは仕方のないことだとは思う。2011年の地震の時も、色々なイベントが中止になった。音楽でつながりのあった中学校の吹奏楽部の卒業コンサートは中止になったのは、とても残念だったからよく覚えている。吹コンの全国大会に行くような学校だったから、卒業生はさぞ残念だっただろう。放射能のこともあったし、世情的にも、仕方なかったことは理解できる。けど、僕と直接面識のあったあの子やあの子の気持ちを思うと、僕はどうにもやりきれなかった。これは理解の問題ではなくて、気持ちの問題だ。人間は、心と体の両方で生きている。体を守るために心を殺していいという道理はない。では心のために体をおろそかにしていいかと問い返されると、僕は黙るしかないのだけど。当時中学生だった彼らも、きっと僕と同じジレンマを抱えていたんじゃないかと思う。どうすればよかったのか、どうすればいいのか・・・正解はない。

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 日光のユースの奥さんが、こんなようなことを僕に語った。
「むこうにね、大きなホテルができて、その大きなホテルも、ユースの看板なんだ。そっちは団体さんも泊まれて、コインランドリーもついててさ。うちみたいな小さな宿屋は太刀打ちできないから、もう商売たたもうかって考えてたところなんだけど、そこに今回の地震だから、嫌になるよ。・・・夏までには片付けるつもりなんだ。まあ、地震のせいでも原発のせいでも、ホテルのせいでもなくて、自分で決めたことだけど」
 その言葉を聞いた時、僕はなんと応えただろう。多分、何も応えられなかった。今ならなんと応えるだろうか。それも分からない。分からないけれど、今なら、苦い汁を全部飲み干した上で「自分で決めた」と宣言した、ユースの奥さんの気持ちの強さだけは理解できる。

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 人生には、自分でどうにかできる困難と、個人ではどうにもならない困難の両方がふりかかかってくる。どっちがどのタイミングで僕の前に立ちはだかるのかは誰にも分からない。でも結局、どんな困難に出会っても行動し決断するのは僕しかいない。昨日も、今日も、そして明日も。