笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

HAT神戸


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 暁光が川筋から湿気をあぶり出している。きれぎれの雲が飛んでいく。鋸や金槌を使う音が河畔のあちこちで響き、それに混じって子供たちの歓声も聞こえてきた。
 
「泥の河」 宮本輝 新潮文庫
 
 阪神淡路大震災の数年後から横浜で暮らし始め、東関東大震災の頃に神戸に戻った。聞き慣れない街の名前を聞いた。HAT神戸
 初めてその名前を聞いた時、ショッピングモールか何かだと思った。例えば、ハーバーランドとかumieとかと同じような。でもそうじゃなくて、それは街の名前だった。以前は神戸製鋼の工場だった運河沿いのエリアにできた、集合住宅街。それが、HAT神戸だ。
 生田川の河口あたりから、HAT神戸のメインストリートを東に向かって眺めると、巨人の定規みたいにまっすぐな道の両側に集合住宅が壁のように並んでいる。まるで、どでかいミニ四駆のコースだ。北側が主に市営住宅で、南側が民営の住宅。これが、間に商業施設をはさみながら、兵庫県立美術館のある一キロほど先までずっと続いている。その先はまだ空き地や公園が多いけど、今開発が進んでいるところだから、やがて似たような光景になるだろう。

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 さっきも書いたように、ここは昔、工場だった。街の西端には鉄を圧延するためのフライホイールがなげやりに保存されている。半ば埋まったフライホイールを見て、ここが工場だったことを思い出すのはもう、僕よりも年配の人だけだろう。多くの人は、フライホイールのなんたるかも知らないに違いない。
 往時を知る元消防団員の老紳士は、こんなことを僕に教えてくれた。
「ここは工場だったんだけど、生田川の河口あたりはバラックが多くてね、つまり不法占拠さ。しょっちゅうボヤさわぎがあったよ。今の風景しか知らない人は、信じられないだろうな。岸壁は艀だまりみたいな感じで、船に住んでる人もいた。それが、たった数十年前の話だ」

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 今、そのバラックのあったであろうあたりは、きれいに公園が整備され、護岸が施され、見苦しい感じは少しもしない。朝には幼稚園の送迎バスがやってくる。三宮へ通勤する人が颯爽とクロスバイクを走らせている。ベイサイドエリアの宅地の平凡な朝の風景だ。マンション群の裏手に回って、運河沿いに出てみると、ジョギングを楽しむたくさんのランナーとすれ違う。ほのかに磯の香りが漂う水際で汗を流すのはさぞ気持ちがいいだろう。少し東へ行くと、湯気のあがる建物が見えた。天然温泉を楽しめるスパがあるのだ。ジムも併設されていて、至れり尽くせりである。
 かつてここが港湾施設や工場であったことをうかがえるような遺構は存在しない。静かに眠るフライホイールの残骸さえ、子どもの遊具と成り果てている。しかし、コンクリートアスファルトに埋められた土地には、明治以降の神戸近代化の歴史が埋まっている。古い地図を時代順に並べて見ると、ここは神戸沿岸の埋め立てでできた土地の、かなり古い方であることが分かる。今でこそHAT神戸だなんて現代風な名前で呼ばれているが、その名前が示すものは、土地の表層に並ぶ薄皮一枚の風景にすぎない。神戸の開港から戦後の好景気、そして重工業の衰退、震災と、ここには神戸の歴史が詰め込まれているのだ。

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 運河沿いに歩いて行くと、マンション群が途切れ、防災センターや県立美術館が見えてくる。平日の正午頃、このあたりを歩いていると、運河の見える広場でお弁当を広げている小中学生の集団に出会うことがある。防災センターに震災についての学習をしにきていたり、美術鑑賞をしにきたりしているのだ。歴史のたたみ込まれたこの土地は、過去を未来に伝える場でもある。

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 僕も県立美術館にはよく足を運ぶ。東京都心の美術館ほど収蔵品は充実していないが、建物が美しいし、企画展や特別展は見応えがある。今年度最後の特別展は、ゴッホ。素晴らしい美術品に触れて、アートの未来を担う若者が神戸から巣立つきっかけになることを願う。