「・・・そりゃ、あんたもわしも、必ずしももう若いとは言えんが、それでも前を向きつづけなくちゃいかん」そして、そのときだったと存じます。男がこう言ったのはー「人生、楽しまなくっちゃ。夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。・・・」
旧居留地とは、神戸開港当時の外国人居留地があったエリアのことだ。ここには今でも、石造りのビルや洋館がオフィスビルに混じって並ぶ。よく整理された区画とクールな街並みが美しい。僕は、石造りの建物を眺めながら歩くのが好きで、よくこの辺りを散歩する。どっしりと構えた石の建築物は、本当にきれいだ。しかも、古いビルディングは極端に高層化されていないので、あまり威圧感がない。東京の丸の内あたりを歩くと、空を隠してのしかかってくるビル群に押しつぶされそうな感覚を味わわねばならないが、ここではそれがないのがいい。
観光地と呼ばれる場所に、三態あると僕は考えている。ひとつは、いかにも観光地らしくメイクアップされた場所。次に、あるがままの素朴さを楽しむ場所。そして、殊更にメイクアップされているわけではないけど、自然な活気によって輝いている場所。もちろん、旧居留地は、三番目のパターンだ。三態にそれぞれの良さがあるけれど、無理なく楽しめるのは旧居留地みたいな土地だろう。旧居留地がまとっているのは、手間のかかったナチュラルメイクの魅力である。
旧居留地を訪れるなら、昼よりは夜だ。とりわけ、夕暮れ時の旧居留地は美しい。空が桔梗色に変化していくに従って、ぽつぽつと街灯やイルミネーションが灯り始める。白っぽく乾いていた石の色が、灯りに濡れて艶っぽく輝いていく。ショーウィンドウがざわざわと語り始める。やわらかな光のざわめき。その間をぬって仕事を終えた人たちが、家族の笑顔を楽しみに家に帰るのか、仕事上がりのショッピングを楽しむのか、それともダウンタウンに繰り出して一杯ひっかけていくのか、それぞれの夜を思い描きながら職場を背にして歩いて行く。
旧居留地は、ファッションの街でもある。一流ブランドのフラッグシップ路面店が、あちこちに軒を連ねていて、ニューヨーク五番街のような雰囲気も感じられる。僕みたいな庶民がおいそれと買い物できる店ではないから扉をくぐったことはないけれど、その個性的な外装を眺めながら歩くのも楽しい。季節ごとに入れ替わるディスプレイも見物だ。