笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

ポートサイド地区


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「黒髪短髪、以外と似合うっしょ」
 癖っ毛がそうとわからないくらいに、光太郎の髪の毛は短く切られていた。
 
「何者」 朝井リョウ 新潮文庫
 
 横浜駅を東口に出て、ベイクォーターを抜けてさらに神奈川区方向へ進むと、巨大なマンション群がある。ポートサイド地区だ。
 仰々しいネーミングだが、とても静かな地域である。大通りから脇道に入ったところにあり、さっきも書いたようにマンション群があり、その足下に公園がある。マンションの一階部分は、マンション住民のごく簡単で些細な日常の買い物の用を、足せるか足せないかという程度の商店がテナント入居している。公園は海(運河?)に面していて、ベンチの類いが整備されているが、遊具はない。海側はシーバスの水路になっていて、シーバスは貨物列車通る線路の下をくぐってみなとみらい方面へ向かう。一時間に数本、貨物列車が通る。線路は多分、川崎ベイエリアの工業地帯へ繋がってるんじゃないだろうかと思っているのだけど、きちんと調べたことはない。
 横浜に住んでいた頃に、例えば仕事の後、気分がくさくさしたり疲れて何もする気が起きない時、僕はよく海辺に来た。時間があれば鎌倉の七里ヶ浜や三崎の方までバイクをとばすこともあったけれど、残業が長引いた日にどうしても海が見たい時は、ここポートサイドにふらりとやってきて、さわさわと寄せる静かな波音に耳を澄ませた。マンションの立ち並ぶ区画にデイリーヤマザキがあって、缶コーヒーなんか買ってなめるように飲みながらじっと海風に当たっていると、ささくれだっていた気分がだんだん静かに潤ってくる。海の上を渡る線路を、貨物列車がのろのろとやる気なさそうに走って行くのが、まるで眠れない夜に羊を数えているよう。横浜の青白い夜空を背景に目の前を横切っていく同じ形のタンクの群を見ていると、息苦しい疲労感が心地よいまどろみへと熟成されていく。ここで過ごす時間は僕にとって、仕事と眠りとの間の緩衝材みたいなものだった。

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 ポートサイドという場所の存在を知ったのは、学生の頃だった。同じ学問を専攻している同級生のひとりが、ポートサイドのレストランでアルバイトしていて、そのレストランでパーティを開いたことがあり、それから度々立ち寄るようになった。
 今はもう、そのレストランも、デイリーヤマザキもない。まっぽさんとの約束までの時間を散歩して潰している時にポートサイドまで歩いてみたら、もうなくなっていた。けれどここは、山手駅以上に、変化がない。公園から見えるベイサイドの風景はずいぶん変わったけれど、ポートサイド地区全体の風景は時間が凍りついているかのように、昔のままだ。

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 僕は大学で心理学専攻だった。心理学専攻の同級生は二十五人いて、その中に男子学生は僕を含めて六人しかいなかった。僕たちは仲が良かった。よく、つるんでラーメンを食べに行ったり、互いの下宿を訪れて料理をしたりレポートを書いたりした。全員が横浜以外の土地の出身で、全員が大学近くに下宿していた。地元を離れてひとり暮らしをするのは楽しかったが、でもやっぱり暮らし慣れた土地を離れてひとり住まいをするのは、みんな寂しかったのかもしれない。
 明言はできないけれど、心理学が勉強したいというよりは慣れた地元を離れて暮らしてみたいという好奇心が強くて横浜に集まった、というのも、僕たちの共通点だったのだろう。その証拠に、卒業後に心理職に就いた者は、男子学生の中にはひとりもいなかった。それは、就職までのモラトリアムの季節。僕たちは大学生として過ごす四年間を、人生のハーフタイムみたいに思っていた。だから、真剣に研究したり就職活動したりしているような顔をして、実は、そうやって一生懸命になっている自分を楽しんでいるだけだった。不真面目にも熱心さを装い、そのことに酔って心の底から自分の人生や真正面にある問題に真摯に取り組むことをしなかった。その後、実際に足を踏み入れた自分の人生の道筋に、どんな経緯があるにしても自分で責任を取らねばならないと僕たちは後から気づくわけだけど。

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 男子学生六人の中に、僕と同じ神戸から来ていた学生がいた。髪を金髪に染めた派手な外見で、気分のアップダウンが激しかった。僕たちは彼をナオキと呼んでいた。
 僕たちは仲が良かったけれど、ナオキは時々周囲と衝突した。僕を含む残りの五人は、ナオキが荒れていると、彼を持て余すこともあった。そんな時ナオキと同郷の僕は、ナオキと僕以外の四人の間をとりもった。同じ関西弁(神戸弁)を使うので、ナオキは他の四人よりは多少、僕に心を開いてくれていたのだと思う。誰かとけんかをした後、僕がナオキのところに駆けつけると、どちらかと言えばナオキは、相手に対して怒っているというよりも、トラブルを起こしてしまったことについて自分を責めているようで、弱気な発言が目立った。ナオキは、周囲からは扱いにくい奴だと敬遠されていたけど、多分本当は、標準より少しナイーヴで感じやすいだけだったんだと僕は思う。
 六人のうち五人は、四年で大学を卒業して就職したけれど、ナオキは卒論を提出しなかった。何年かして、どうもナオキは卒業しないで大学をドロップしたらしいという噂話だけを聞いた。噂話だから、本当かどうかは分からない。そして、今ナオキがどうしているのか、それを知る術は僕たちにはもうない。

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 ポートサイドでパーティを開いたのが、何のパーティだったのか、僕はもう思い出せない。クリスマスパーティだったのか、あるいは誰かの誕生パーティだったのか。ただ、あの夜の少し前、確かナオキはやっぱり誰かと揉めて、パーティには来なかったような気がする。確かな記憶ではないが、多分、来なかった。無理にでも呼べばよかっただろうか。引きずってでも連れてくればよかっただろうか。僕はあの後、時々悩んだ。無理に連れてくれば、それはそれでかえってナオキには酷なことだったかもしれない。そのときの記憶がよみがえって僕の心をちくちくとさす時、僕はやっぱりポートサイドに来て耳を澄ませ、穏やかな波の音で気分を洗った。それが卑怯なことだとしても、僕としては他に手立てがなかった。
 一緒に卒業した仲間たちとは、卒業してからも会って飲んだりラーメンを食べたりしたし、それぞれの結婚式には声をかけあった。筆まめな何人かは今でも僕に年賀状をよこしてくれる。僕たちの大学時代の付き合いが、薄っぺらなものだったとは、僕は思わない。けれど、僕たちがそれぞれ僕たち自身でならなくてはいけなかったかとつきつめて考えると、絶対にそうだとは言えないかもしれない。きっとナオキにはそれが耐えられなかった。ナオキは不真面目なように見えて、僕たちの誰よりも自分の気持ちにまっすぐだった。今ではそれが僕にもやっと分かる。今さら懺悔のようにこんなことを言っても手遅れなのは承知しているけれど。

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 空はまだ重く曇っているけれど、やっと雨の上がったポートサイドを、僕は三十分ほど散策した。人影はほとんどなく、カモメが空を舞っていた。シーバスが一本通った。雨粒に濡れたベンチを見ながら、僕はナオキは今どこでどうしているのだろうと考えた。彼みたいな人には難しいことかもしれないけど、幸せでいてくれればいいと思う。
 ふと海の方に気配を感じて、僕は振り返った。川崎の方から貨物列車が一本やってきて、のんびりと横浜駅の構内へ消えていくところだった。