笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

神戸臨港線②


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 下流の方は川はばいっぱい銀河が大きく写ってまるで水のないそのままのそらのように見えました。
 ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいないというような気がしてしかたなかったのです。
 

 

 国道二号線の架道橋から、灘駅方向へ進んでみる。
 この架道橋から灘駅までは、かつての線路が遊歩道として整備されている。僕が訪れたのは、木蓮の散り始めて、桜が咲き始める頃。あと一週間ぐらいタイミングをずらして来れば、満開の桜を眺めながら歩けたかも知れない。
 遊歩道は線路跡らしく、線路が一部保存されていたり、電線を架ける鉄骨が残されていたりする。気分はちょっとだけ、スタンド・バイ・ミー
 ゆっくり歩いて行くと、通常の軌道幅よりずっと狭い線路が現れる。その向こうには工業高校のグラウンド。この高校の鉄道研究部が、文化祭ではこのコンパクトな路線に機関車を走らせる。確か、子どもは乗せてもらえたはずだ。中々、粋なアトラクションだ。
 遊歩道は灘駅まで、ずっと集合住宅の谷間を伸びていく。ミュージアムロードにぶつかるまで、風景はほとんど変化しない。おそらく、これらの集合住宅の多くは、震災後に建設された復興住宅だろう。例えば高倉台あたりにあるような震災以前の団地とは、明らかに建物が違う。たかが公営住宅だが、建設された時代や事情によって微妙に風景が違うのが面白い。
 遊歩道は、灘駅の南、ちょうど架線橋へ上っていくスロープのところで途切れる。遊歩道の延長線とはちょうど道一本分ずれてスロープがあるが、もし線論がスロープの方に伸びていたなら、かなり急なクランクが必要になるだろう。それはおかしい。遊歩道の延長線上にあるのはマンション。僕はそのマンションの南側の路地を迂回して、遊歩道の延長線をたどった。すると、小さな公園があり、線路の遺構が保存されている。マンションはきっと、臨港線の線路跡に建てられたのに違いない。マンション、公園の先には駐車場があり、その先は見通せないが、おそらくこの駐車場の向こうで臨港線は山陽本線から分岐していたのだろう。

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 スロープに戻り、高橋(たかばし)という架線橋から線路を見下ろす。だいたい十分に一本ぐらいの割合で貨物列車が通る。今山陽本線を走る貨物列車はたいてい、EF-65かEF-210が牽いているけど、震災前にはDD51の姿をよく見た。あれは臨港線へ引き込む貨物を牽いていたんだと僕は思う。山陽本線はとっくに電化されていたが、DD51ディーゼルだからもくもくと黒煙を吹き上げながら走っていた。鉄道に詳しいわけじゃないし、当時はそんなに興味を持って貨物列車を観察していたわけでもないから、確かじゃないけど、多分そうだったんじゃないかな。近頃はDD51をほとんど見なくなった。あの形、ボンネットタイプというのだろうか、けっこう好きだったんだけどな。