笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

「今津灯台」 令和に取り残された文化の灯り

 

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 国道に出てみた。といっても、わたしには国道に見えたというだけのことで、実は、この土地の住民にとっては、麦畑の間の畦道にすぎなかったのだ。
 
ガリヴァー旅行記」 J.スウィフト/坂井晴彦(訳) 福音館書店

 

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 高架線を基調とする阪急神戸線は、西宮北口駅の少し手前で着地する。下車してホームに降りると、見下ろしていた地面が水平の位置にあった。
 そこから階段を使ってコンコースへと上がる。階段を上ってすぐに、大関の直売所があった。日本広しといえども、コンコースに日本酒量り売りの直売所がある駅はそう多くはあるまい。さすがは、灘五郷の一角を担う西宮郷ターミナル駅だ。香り高い大吟醸を今すぐ飲みたい気持ちをぐっとこらえて、コンコースを南に進む。
 通路を歩いていくとやがて、コンコースはそのまま高架線のホームへとつながる。阪急今津線だ。今津前はターミナルを含めてわずか三駅の短い路線で、西宮北口駅から反対側の今津駅まで、十分足らずで到着する。僕はこの線を初めて利用した。
 目的は、今津灯台を訪れるためであった。
 江戸時代、1810年に設置された今津灯台は、現在も航路標識として稼働する最古の灯台らしい。往時の姿を留めたまま今も航海の安全を守り続けている灯台だなんて、ロマンをかき立ててくれるじゃないか。これは、見に行かないわけにはいかない。

 今津駅で降りると、市街地のターミナル駅らしくチェーン店の定食屋や、阪神ファンをあてこんだ居酒屋が軒を連ね(甲子園球場はすぐそこだ)、少し外れまで歩くと一軒家を中心とした住宅街になる。そこから海岸線を目指して南へ歩いて行くと、すぐに国道四三号線にぶつかった。四三号線は片側三車線、産業道路的な色合いの強い幅広な道路だ。真上を屋根のように覆うのは阪神高速三号線。大阪から神戸を貫いて、近畿と山陽を繋ぐ大動脈のひとつと言っていいだろう。生身の人間を拒否するかのような巨大な構造物が覆い被さるアスファルトとコンクリートで構築された空間を、多少の不安を感じつつ僕は横断歩道で横切った。
 マップに表示されるルートに、本当に通行可能なのかどうかいまいちよく分からないところがあったので、僕は少し東に迂回し、今津灯台へまっすぐアクセスできる道を南進した。四三号線には騒音への配慮から、遮音壁が設置されている。信号一つ進むと、四三号線のロードノイズがたちまち遠のく。

 このとき僕はすでに、違和感を感じていた。この違和感を感じ始めたのは、いつからだろう。そうだ、四三号線の横断歩道を渡った時からだ。まるでまるで巨人の国に来たような、あるいは自分がリリパット族にでもなったような。
 周囲を見渡す。目に入るものといえば、酒造工場、郊外型の複合商業施設、各棟が百戸以上は確実にありそうな公営住宅やマンションの、群れ、群れ、群れ。そのひとつひとつが、すべて、巨大だ。僕は確か、二百年以上の時を経た歴史ある灯台を見に来たのではなかったか。なのに僕の周りを取り囲んでいるのは、昭和から平成にかけて林立したとおぼしき鉄筋コンクリートの巨魁の森だ。その隙間にひれ伏している平屋のコンビニが哀れに見える。僕は携帯のマップを確かめる。本当にこの道で正解なのか。でも、僕の手のひらの中で、今津灯台を指し示すバルーンは、確かにこの道の先に浮かんでいた。
 強烈な圧迫感に耐えながら、さらに海に近づいていく。すると今度は、僕の前進を阻むかのように、高さ三メートル以上はありそうなコンクリートの壁が現れた。防潮壁だ。
「これ、入っていいんだよね・・・?」
 防潮壁の鉄のゲートは開いている。が、ほんの気軽な気持ちで灯台見物に来た僕を歓迎してくれている空気ではない。僕はゲートの前でしばし立ちすくんだ。潮の香りがした。防潮壁の向こうはもう港で、ボートの群れや船を揚陸するためのクレーンが見える。遠くには釣り竿を担いだ人たちが見えた。勝手に入ったら怒られるだろうか、そんな思いが僕の脳裏をかすめたけれど、ここまでくるのに結構な距離を歩いていたので、前進する勇気が尻込みする弱気に勝った。
 ままよ。僕は意を決してゲートから防潮壁の向こうへ進んだ。なるべく目を合わせないようにしながら、釣り竿の一団をやり過ごす。何も言われなかった。ちょっと胸をなで下ろす。
 

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 向こうにもう一枚、防潮壁が見える。やはり高い壁だ。しかし、その向こうには暮れ時の冬空が広がっていて、その薄暗い空に、天をさす小さな矢印のシルエットが見えた。あれが、今津灯台だ。
 殺風景な入り江の真ん中に、取り残されたように今津灯台は建っている。まるで、玉手箱の煙に包まれた浦島太郎だ。灯台の周辺だけが江戸時代のままで、周囲はコンクリートの王国。入り江の反対側には工場があって、海にむかってどぼどぼと排水をこぼしている。すぐ向こうでは巨大な重機が何やら土を掻き出す作業をしている。埋め立てかもしれない。

 僕は写真を撮るために、アングルを探って灯台の周りを歩き回った。けれど、カメラを構えて構図をとろうとしても、どうにも様にならない。どうしてだろう・・・歩きながら考えるうちに僕は気づいた、背景がよくないのだ。こっちから撮れば、巨大な重機が写る、あっちから撮ると工場が、そっちから撮ると団地が・・・江戸時代の向こうに、令和が写りこんでしまう。そして、それら現代の巨大構造物を背景にする今津灯台は、頼りないほど小さい。
 不思議な光景だった。灰色の構造物に囲まれた入り江に、古色蒼然たるいにしえの灯台が、静かに佇んでいる。強烈な違和感を感じた。その違和感は、さっき僕が、自分に対して感じた違和感によく似ていた。史跡として大切に保存されている割には、この投げやりな景観、しかも灯台を保護するための柵さえ、四方のうちのひとつにしかないという中途半端さ。その結界の甘さが、かえって一層、今津灯台の存在の違和感を強調している。
 

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 しかし、僕はむしろそのせいで、今津灯台に親近感を覚えた。彼も僕も、この空間の中では明らかに異物であった。
 灯台は基部が石造りで、灯塔および灯籠は木製。灯籠は格子をはめた箱形で、銅板張りとおぼしき屋根がついている。灯籠の中では高輝度の電灯がグリーンに輝き、奇妙なサイボーグ感を放っていた。
 灯台の真下まで寄って、そっと手を触れてみる。石と木でできた灯台は、懐かしい手触りがした。灯台の足下まで寄ると、さすがに見上げる大きさだ。灯火は見えない。灯籠へ向かって弧を描きながらすっとのぼっていく灯塔のシルエットは優美で、表面を焦がした木材の渋い黒は、剣豪のまとった羽織の趣さえある。緑の眼光を放つ、隻眼の剣士。そんなイメージが浮かんだ。
 

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 そうだ、この灯台は小さいが、美しい。美しく、そして力強い。
 僕は灯台を背にして、風景と向き合う。令和の風景が、じりりと半歩下がった気がした。うん、いいな、今津灯台。僕は今津灯台を見上げる。今津灯台の笠が、僕を守るように覆っていた。そして、ここからは見えないけれど多分、あの緑の目がじろりと海の向こうをにらんでいる。
 暮れていく巨大な風景に向かいながら、僕は今津灯台と酒でも酌み交わしたい気分になった。