笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

神戸ルミナリエ

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 彼女たちの笑顔は爽やかだった。焼跡をほじくりかえして焼けたバケツへ掘りだした瀬戸物を入れていたり、わずかばかりの荷物の張番をして路上に日向ぼっこをしていたり、この年頃の娘達は未来の夢でいっぱいで現実などは苦にならないのであろうか、それとも高い虚栄心のためであろうか。私は焼け野原に娘達の笑顔を探すのが楽しみであった。
 
堕落論」 坂口安吾 ハルキ文庫

 

 神戸ルミナリエが行われた最初の年は、阪神淡路大震災のあった1995年。僕は、その年から横浜に行く直前の97年までのルミナリエを見ている。
 95年のルミナリエは、震災からまだ一年を経ないうちに行われた。海沿いの街全域がまだ、再建の粉塵に煙っていた頃だ。その年の十二月はひどく寒くて、家にあった防寒着を全部着込んで行ったのを覚えている。僕は、旧居留地にある三井住友銀行のファザードの下で点灯の瞬間を待っていた。やがて街が薄暗くなり、アナウンスに続いて、白い木枠に取り付けられた電球が一斉に灯ると、集まった人の群から感嘆の声が漏れた。「わあ」とか「きゃあ」とかじゃなくて、「おお・・・」という、深いため息のようなざわめき。
 鎮魂の灯り。
 僕の身近な人に最悪の災禍はやってこなかったが、それでも、天に昇るかのような光の回廊をかたちづくる一粒一粒の光が、カラフルなかき氷のシロップのように、僕の目の中でとけて揺れていた。美しかった。
 

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 油のはぜる音、ソースの焼ける香ばしい匂い。
 露店の出店を認めるべきか否かという議論は、かなり最初の頃からあった。
 鎮魂のセレモニーなのだから、お祭り騒ぎにするべきではないという意見と、より多くの人にルミナリエを見に来てもらって、神戸の復興を促進するべきだという意見があった。どちらも、もっともな意見であった。人は、いつまでも悲しんでばかりいるわけにはいかない。生きている者には、今日口に運ぶパンが必要だ。そのパンが、命を明日につないでいく。夜を乗り越える者にしか、未来は訪れない。それでもやっぱり、実際に地震を経験した被災者だった僕としては、もうもうと煙をあげる鉄板に群がる人の笑顔に、ちょっと微妙な気持ちになる。瓦礫のたてる乾いた粉塵のなかで願った僕たちの未来が、この笑顔だったとしても。
 

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 毎年、十一月中頃になると、東遊園地から京町筋のあたりまでのエリアでルミナリエの組み立てが始まる。大量の木枠が少しずつ、アーチや壁面を形成していくのを日々眺めていると、ああ今年も一年が終わるのだなという気分になるのは、ルミナリエが年末の恒例行事としてすっかり定着したからに違いない。
 ルミナリエのデザインは毎年異なる。今年のドームの脇は中世ヨーロッパ城郭のタワー風だが、去年は大型テーマパークのエントランスモールのようなアーケード風だったし、以前はスパッリエラという壁面がぐるりと広場を取り囲んでいた。イタリアのデザイナーが監修しているらしく、木枠にかきつけられた文字を眺めていると、自分が海外に来たようで不思議な気分になった。ルミナリエは、遠い国からやってきたのだ。
 

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 遠い海の彼方から届けられる、光の贈り物。それがルミナリエだ。
 そう気づいて僕は、ああそうか、と手のひらを拳でうった。これは二十五年前から時を超えて届けられた光のメッセージなのだと。
 芋を洗う混雑の中ですれ違った人が、ぽっと口にした言葉が耳に飛び込んできた。
「よっしゃ、今年も、元気もらった」
 口ぶりから察するに、僕より少し年配の男性。振り返ると、丸まった背中とニット帽が人混みの向こうに消えていくところだった。手には売店で買ったらしいカップの飲み物を持っている。あの年代で地元の人なら、彼もきっと僕と同じように被災者だっただろう。誰か大事な人を亡くしているかも知れない。僕の心の中に、ぽっと火が灯った気がした。
 見上げると、夜空の真ん中にドームの頂上を飾る灯りが大きな導きの星のように輝き、そこから幾多の光の筋が、僕を取り囲むように降り注いでくる。人混みのざわめきが大きくなったような気がした。ここには怒声も嗚咽もなく、ドームの中には、ルミナリエの灯りを楽しむ笑い声が満ちている。弱く吹いた冷たい夜風に、夜店の匂いが混じっていた。
 

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 僕は家族でルミナリエを見に来ていた。誰かに写真を撮ってもらおうと、あたりを見回す。同じように、写真を撮ってもらいたそうにしている人を探した。すぐそこにいたカップルの女性の方と、目が会った。
「写真撮ってもらえませんか。代わりに、そっちも撮りますから」
 彼らは笑顔で快諾してくれた。まず僕が、彼女の携帯を受け取って撮影する。それから僕のカメラを彼女に渡し、家族写真を撮ってもらった。彼らは、液晶画面をたたんだ一眼レフの操作が分からなかったらしく、僕はカメラをライブビュー撮影に切り替えてから、シャッターボタンの位置を教えた。
 若いカップルだった。多分、地震の頃にはまだ生まれていないだろう。カメラと言えばファインダーを覗いてシャッターボタンを押すのが当たり前なのが僕たちの世代。液晶画面を見ながらタッチパネルで操作するのが当たり前なのが彼らの世代。僕たちは写真を取り合い、お礼を言いあって、笑顔で別れた。
 恐ろしい大地の揺れに恐怖したあの日、僕たちが望んでいたものは、きっとこの笑顔だ。人混みの向こうに去って行く彼らを見ながら僕はそう思った。美しい風景を楽しんで、帰りには焼きそばなんか買ってお腹を温めるといい。きっと、いい思い出になるだろう。
 僕は彼らの背中を見送りながら、彼らの幸せを祈り、来年もまた来ようと決めた。