笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

「須磨」

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ゆゑもなく海が見たくて
海に来ぬ
こころ痛みてたへがたき日に
 
「一握の砂」 石川啄木 ハルキ文庫

 

 海を訪れるのはいい。砂浜でも港で構わない。希望を失った朝、やりきれない午後、なんとなく気の滅入る夕方、疲れ果てた夜。寄せては返す波の音に耳を澄ませていくと、自分が透きとおっていく気がする。高校生の頃は、まだあの船をひっくり返したようなホテルのなかったメリケンパークによく行った。横浜に暮らしていたころは、大桟橋か七里ヶ浜。近頃は須磨の砂浜によく来る。一時間ほも潮風を浴びて自分を漂白すると、生まれ変わった気分になれる。気持ちが、真っ白になる。
 須磨には、ふた月に一度くらいは足を運ぶ。用事はない。ただ、気持ちがくさくさしたり、気分が足踏みしている時にここへ来て雲を見上げると、わけもなくこだわっていた何かに対する気持ちが、すっとさめる。雲に見下ろされて、今の自分の姿を知る。そう、どちらかと言えば、海に来るというよりは、空を見に来ているのかもしれない。
 

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 須磨のいいところは、駅にコンビニがあることと、駅が砂浜に隣接していることだ。海が近いことで知られる江ノ電の駅でさえ、砂浜までは道を一本はさむ。僕は改札を出てまずコンビニでコーヒーを買う。近頃のコンビニは、それなりに悪くない味のブラックコーヒーが手軽に買えるのがいい。コーヒーはブラックでなければいけないと僕は思う。そして、淹れたての熱いコーヒーを右手左手と持ち替えながら、砂浜に降り、石段に腰掛ける。コーヒーはまだ冷めていない。今、プラスチックの蓋の小さな隙間から濃密な飲み物を口に注げばきっと、唇をやけどするだろう。それが、いい。
 海というのは、実に面白い。一日たりとも同じ顔をしないからだ。波が穏やかな日もあれば、高々と飛沫を上げている日もある。風が耳元でごうごうと鳴る日もあれば、耳鳴りがするほど静かな日もある。雪が舞う日もあり、また霧に水平線がかすむ日もあり、あるいは強烈な日差しに目を開けていられないような日もある。
 それに、同じ海でも、例えば七里ヶ浜の海に吹く風と、須磨の海に吹く風は違う匂いがするし、横浜港と神戸港では、夜空に浮かぶ雲が違う色に輝く。地球儀で見下ろせば、どちらも同じ大洋に面しているのに、どうしてこんなに違うのだろう。
 

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 ずっと神戸に住んでいる知り合いに須磨の話を聞くと、地震の後しばらく、須磨は荒れていたらしい。整備が行き届かずに汚れていた頃があったようだ。治安も悪かったと聞いている。
 今は、そんな風には感じない。静かで、安心して散策できる、素晴らしい海岸だ。公衆トイレはきれいだし、遊歩道もある。その遊歩道が砂に埋まってしまうこともない。そりゃ、よく磨いた鏡のように、というわけにはいかないけれどここは、街と自然、陸と海の境目なのだから、砂粒みたいなことに対してぶつくさ文句を言うのはナンセンスというものだ。
 

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 コーヒーが冷め切らないうちに飲みきって、僕は散歩する。波打ち際を踊るように歩き、遊歩道に戻って今自分のつけた足跡が消えていくのを眺める。それを何度も何度も繰り返す。そうやって遊んでいるのは、僕だけじゃない。ほらいるじゃないか、機関車みたいに、はっ、はっ、と規則正しく息を吐くランナーや、突堤から無心に釣り糸を垂れる人、何をするでもなく砂の上に寝そべっている人、じっと波に耳を澄ませている人、雲と視線で交信している人、耳を両手で塞いでただただ自分の手のひらが奏でる命の音を楽しんでいる人。彼らは僕の仲間だ。言葉を交わすことは決してないだろうけど、僕たちは孤独を愛するというそのためだけに互いを認め合える、接点のない仲間だ。
 

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 海のことは、また書くこともあるだろう。でも今日の、あとの時間はもう、自分の頭蓋骨の中に閉じこもって、こだまする波の音に安らいでいたい。久しぶりに気持ちが揺れ散っている、そんな今日は。