笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

「宝殿」 浮遊する巨石

 

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 ・・・ノンフィクションを書く仕事にとって最大の敵は無関心である。何かに驚いたり何かをおもしろがったりする気持ちこそ大切だ。こうした気持ちは、残念ながら、日本の学校教育の中では摩滅していく。・・・
 テーマを見つけるには、子供の好奇心を呼び戻さなければならない。

「調べる技術・書く技術」 野村進 講談社現代新書

 

 十二月の晴れた朝、僕は三宮に向かった。まだ空は暗い。東の地平線だけがかすかに砂色に輝いている。
 僕は、六時四十九分三宮発の網干行快速列車に乗った。四半世紀前は四十八分発だった気がする。僕たちはその電車を「遅刻せずに普通に学校に行ける電車」という意味でフツ電と呼んでいた。一本遅いとオソ電、もう一本遅いと遅刻スレスレなのでチコ電。
 フツ電は早朝の時間帯にも関わらず、三宮駅からすでに混んでいる。姫路方向への通勤列車でもあるのだ。僕は東へと飛び去っていく車窓を眺めていた。見覚えのある建物もまだいくらか残っている風景は懐かしい。しかし、僕にとっては思い出の風景でも、通勤客にとっては見飽きた日常の風景であるに違いない。彼らはむっつりと怒ったような表情で、風景になど無関心だ。
 

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 学校の最寄り駅の少し手前に、宝殿という駅がある。快速列車は西明石を境に各駅停車になるので、その宝殿駅でも停車した。すると、僕がいつも乗る車両の窓からは、地域の名所を紹介する看板が見える。「石の宝殿」とその看板に書いてあって、それは一体何だろうといつも気になっていた。ぜひ見なければ、というほどの事情も欲求心もなかったけど、興味はあった。しかし、登校中に下車しては遅刻してしまう。部活を終えて電車に乗る頃には夏でも薄暗くて行く気になれない。なので、僕が中高に在学している間に、石の宝殿に立ち寄る機会はなかった。
 その、「石の宝殿」こと生石(おうしこ、あるいは、おしこ)神社に行ってみようと思った。ブログを始めて、その記事を書くために、さてどこへ行こうと地図をぼんやり眺めていた時に、ふっと思い出したからだった。
 正直に言って、神戸から近い場所とは言えない。本当に行ってみようかどうか、少し迷った。しかし僕は、好奇心を優先することにした。僕は、大人になることや社会で生きることで少しずつ失われていく好奇心を、てのひらに包んであたためることが大事なんじゃないかと、野村進に励まされた気がした。仕事がない日を選んで、家族が目を覚ます前に足をブーツにおさめた。
 

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 僕は生まれて初めて、宝殿駅のホームを踏んだ。電車が行ってしまうと、あたりはとても静かになった。このあたりの新快速の停車しない駅はたいていそうだと思うが、宝殿駅も通勤時間以外は三十分に一本しか電車がこない。のどかな駅だった。駅前には、暇そうなタクシーが二台、ロータリーでエンジンを切って客を待っていた。
 タクシーには乗らず、僕は地図を確かめ、生石神社にむかって歩いた。国道に対して斜めにまっすぐのびた道を進んでいく。神社らしいものはどこにも見えなくて、途中で不安になり、草刈りをしているおじさんに「石の宝殿ってこっちですか?」と尋ねた。
「まっすぐ行くと、川があるから、それを渡る。そしたら左の方、山に登る階段があって、それが参道。ちょっと遠いよ」
 おじさんはそんなようなことを、ぼそぼそと小さな声で、しかし丁寧に教えてくれた。その言葉に勇気をもらって、僕はまた歩き始めた。おじさんの教えてくれたとおり、やがて川が見え、橋の上に立って上を見上げると、切り立った山の斜面の上に社殿があった。
 

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 石畳の坂を少し上がると、石造りの鳥居の前に出る。僕は一礼して鳥居をくぐった。山の神社の参道はかなり急で、石段は足幅もないほど狭く、進むのに難渋した。ゆっくり、十分ほどかけて上ると社殿の前にやっと立てる。僕は参拝料を納めて、ご神体の前に進んだ。
 なんだこれは。
 社殿に入るなり、そのご神体は僕の前に屹立した。屹立? いや、ちがう。立っているのではない、浮いているのだ。しめ縄をまとった巨大な真四角の岩塊が、正方形の池から数センチ浮き上がって静止している。ご神体の大きさは一片が六、七メートルのほぼ立方体。裏側にまわると、角のような出っ張りがあるが、ご神体はまわりをとりかこむどの壁面ともつながっていない。完全に、浮いている。
 いや、もちろん合理的に推測をめぐらせば、池の中にご神体を支える脚があるだろうことは想像できるが、少なくとも観察した限りにおいては、岩塊は浮遊しているようにしか見えない。
 社殿を出ると左右に岩を削った階段があって、ご神体を上から見下ろすことができる。滝壺のように落ちくぼんだへこみの真ん中に、立方体のご神体を見下ろすと、昔のブラウン管テレビのような形をしていることが分かる。これは「鎮の石室」が横たわっている姿らしい。テレビの例えで言うなら、画面の方が床で、背面の方が屋根になる格好だろうか。あの岩が宙に浮いていると思うと、実に不思議だ。
 

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 僕は素直に、すごい、と思った。同時に、どうしてもっと早く来なかったんだろう、とも思った。
 ここに来る以前、僕が「石の宝殿」に対して特別な気持ちを抱いていたかと問われれば、正直、それほどでもないと応えるしかない。しかし、期待以上の驚きと発見に、僕は喜び、また反省もした。僕は自分が、もっと自分や世界のことを愛していると思っていた。でも、ここにこんなに面白いものがあることを知っていたのに、僕は中高の六年間、一度もここを訪れなかった。それは誠実な態度とは言えないと僕は思った。
 僕は、行きたいと思うところがあって、そこに脚が届くのなら、必ずそこへ行こうと決めた。これは、このブログを始めるにあたって、僕の公約とすることにした。
 階段をさらに上ると、岩山の山頂に出る。山頂からは町が見渡せ、遠くには海も見えた。風のない穏やかな初冬の空は霞んでいる。あの霞の向こうには、どんなものがあるだろう。そこに行ったら、どんなものに出会えるだろう。僕の未来には、まだ思いもよらぬ素敵な出会いが、たくさん待っているような気がした。
 

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