笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

市バス


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 僕は電車では行きにくい場所を目指す時、駅から多少遠くてもたいてい徒歩で移動するのだけど、雨の日は例外だ。冷たい春一番が神戸の街を吹き抜けた雨の日、僕は市バスに乗った。
 パンデミック以降、路線バスは敬遠していたのだけど、バスで感染が起こったなんて話は去年の春の、本当にパンデミックの最初の頃に報道があったのを最後に、あとは聞いていない。ちょっと不安はあったけれど、何せ雨風のひどい日だったので、僕はバス停に立った。すでに数人がバスを待っていた。しばらくすると、見慣れた緑色の車体が灰色の霞の向こうから這い出してきた。
 神戸の市営バスの塗装は、昔からグリーンだ。昭和の中頃に市電が廃され、その路線があった道をなぞるように走る市バス。僕は市電を知らない。僕が生まれる少し前に廃線になった。僕が小さな頃の市営バスのグリーンは、今みたいな明るい黄緑ではなくて、椿の葉のように濃い緑だったような気がする。
 僕はあまり神戸の市バスを使わない。別に特別な理由があるわけじゃなくて、ただ単に使う用事がないだけだ。子どもの頃にも乗った記憶はほとんどない。

 でも、ほんの少しの間だけ、習い事に行くのにバスを使っていたことを覚えている。何の習い事だったのか、いつ頃のことだったのか、それは思い出せないのだけど、そこへバスで通っていたことだけは確かだと断言できる。なぜかというと、その習い事の帰り、僕はバスを乗り過ごしたからだ。
 小学校の中学年以降のことはかなりはっきり思い出せるから、それよりも前だろう。でも幼稚園児をひとりでバスに乗せるとは思えないから、多分、小学校低学年だったんじゃないかな。季節は冬だった。
 僕は、ぼーっとするのが好きな子どもだった。ぼーっとするのは今でも好きだ。何かを考えたり想像したりするわけでもなく、目を開けたまま眠っているかのように、脳みそのスイッチをオフにする。多分そのときも、バスに乗りながらぼんやりしていたはずだ。気がついた時には、自分が降りなければいけない自宅近くのバス停にバスが止まっていて、立ち上がろうと座席から腰を浮かせた時に、ぷしゅーっと降車用の扉が閉まった。
 頭の中が真っ白になった。そう、頭の中が真っ白になるっていう事態は、本当におこるのだ。目の前にある問題を解決するための行動の選択肢リストがすべて空欄だった時、頭の中は真っ白になる。耳の中で「ちーん」と音がする。
 しかし、とにかくすぐに下車しなければいけないことだけは分かっていた。車窓は、どんどん見慣れない景色に移り変わっていく。叫びだしたいのを何とかこらえながら、僕は次の駅を待った。混んだ車内の人いきれが息苦しかった。そして、やっとバスが止まって、運転手に「君、乗り過ごしただろ」なんて怒られるんじゃないかとどきどきしながら逃げるように降車した。
 降り立った場所は、全然知らない場所だった。でも幸いなことに、バス道はまっすぐで、バスが走り去っていく方とは反対に進めば必ずいつもの駅にたどり着くだろう事は想像できた。僕はどんどん暮れていく澄んだ桔梗色の冬空に急かされて、とにかく歩けば何とかなるはずだと考えながら、歩いた。小学校の校区の境目にある馴染みの文房具屋が見えたときはほっとした。
 今でもバスに乗ると、あのときのことを時々思い出す。バスの中の人いきれや、桔梗色の冬空や、馴染みの文房具屋なんかを思い出す。その文房具屋、バスを乗り過ごしたあの日の頃にはまだ馴染みじゃなかったけど、もう少し大きくなって自分で買い物ができるようになってからは、よくノートなんかを買いに行った。十年前、僕が神戸に戻ってきてすぐの頃はまだ商売していた。しかし、数年前に閉店した。

 神戸は僕にとって、思い出の堆積した街だ。嫌いじゃないが、ちょっと息苦しく感じる時もある。雨の日のバスの車内みたいに。雨に濡れたバスの窓は、あいまいな記憶を写す鏡なのかもしれない。


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