笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

話し相手のいる幸せ。

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「・・・君がもし僕の立場だったら、いま君が僕に言ったことを言われて、それで納得できるのか」と僕はきいた。
「僕は君に納得してくれなんて言ってないじゃないか」と百瀬はうんざりした声で言った。
「僕の考えに納得する必要なんて全然ないよ。気に入らなきゃ自分でなんとかすればいいじゃないか」
「だから僕は」
「なあ、世界はさ、なんて言うのかな、ひとつじゃないんだよ。みんながおなじように理解できるような、そんな都合のいいひとつの世界なんて、どこにもないんだよ。・・・」

『ヘヴン』 川上未映子 講談社文庫

 

 大学と役所の一件では、僕も相当不快な思いをしたし、しばらくは不機嫌だったけど、今は落ち着いている。まあ、こういうことって長く生きていれば当然、時々あるってことは知ってるし、不利益を被らざるをえない場合があることもある程度受け入れている。もちろん、だからって、それがいいってことじゃない。だけど問題は、そういう場面に遭遇した時、自分がどのように行動するかってことだ。戦う、逃げる、待つ、別の道を考える・・・RPGゲームでフィールドを行く時に、出会った敵にどのように対処するかっていうのと同じ。
 それでも、「やられた!」と感じた時には、びっくりするし、怒ることもあるし、うまく解決できないときには不機嫌になったり落ち込んだりすることもある。

 そんな時に、「こんなことがあってさ・・・」と話す相手がいるのは、幸せなことだろう。幸いにも僕には、嫌なことも気楽に話せる妻がいて、落ち込んでいれば励ましてくれる子ども達がいて、愚痴を言えば適当にバカにしつつも気遣ってくれる友人がいて、こうやって文章にすれば読んでくれるあなたがいる。本当に有り難いことだと思う。

 話す、ということは、出来事や自分の感情を誰かに伝えるってことなのだけど、伝えたからって具体的に何が解決するわけじゃないのに、ただ話したというそれだけで気持ちが軽くなるのはどうしてだろう。そこのところの原理はよく分からない。分からないのだけど、自分の感じていることを言葉にして話すごとに、心が軽くなっていくという事実だけは、僕はよく知っている。「王様の耳はロバの耳」と叫ぶことは、一つの心療的行為だ。

 

なんとか、がまんしていたが、寝言でしゃべらないかとしんぱいで、
ねむれなくなってくる。それでもがまんをしていると、
しゃべりたいことでおなかがふくれてくる。
しゃべらなければ死んでしまう。
けれど、しゃべると、これまたいのちがなくなる―――。
すっかり顔色もわるくなった床屋に、
まえに忠告してくれた者が、こうおしえてくれた。
「岸辺のアシ原にあなをほり、そのなかにしゃべりたいことをしゃべり、
うめてしまえばいいでしょう。
ひとにしゃべるのではありませんから、
やくそくをやぶることにはなりません」
床屋はそうした。

『王子さまの耳はロバの耳』 岡田淳/はたこうしろう フェリシモ出版

 

 何かストレスに見舞われた時に、そのストレスを回避する方法を知っていることは大事なことだ。「王様の耳はロバの耳」のたとえで言うなら、穴をもつ、ということになるかもしれない。穴さえあれば、何度でも「王様の耳はロバの耳」と叫ぶことができ、日常の社会生活を送ることができる。しかし、穴がなければ、ストレスは狂気や病の種になる。運が悪ければ、正体不明の悪意に取り憑かれて、絶望してしまうことだってあるだろう。
 生活の周囲には、悪意もあれば善意もあるわけで、どちらか一方しかないってことはないのだが、悪意と正面衝突すると、どうしたって周囲のすべてが悪意の色に染まっているように見えてしまう。だから、穴を用意しておく。穴にむかって「王様の耳はロバの耳」と叫んで、一旦冷静になる。それから、穴は埋め直し、自分にとって最善な行動が何かを考えて、実行に移す。

 この方法は手軽で確実なので、とてもいい。しかし、この方法が使えないケースが、ふたつだけある。それは、自分がストレスを感じていることを認められない場合と、ストレスの正体を言語化できない場合だ。
 僕はストレスなど感じていない・・・そういう風に、虚勢を張りたくなる時が、とくに若い時期にはあるものだ。そうとらえることを、プライドが邪魔する・・・僕にもそういう頃があった。でもねー、これはよくない。何の問題解決にもならないからだ。
 過剰なストレスによって心が傷ついている状態を心的外傷などと言うけれど、ストレスって、怪我のひとつだと思うんだよね。で、怪我をして体からダラダラ血が流れているのに、「怪我なんかしてねーし」って強がりでそっぽ向いてしまっては、怪我なんて治らないのは当たり前である。だから、今まさに血が流れている怪我をなんとかするためには、処置をして包帯を巻くのが正解であって、そのためには前提として、「僕は怪我をしている」ということを認めなければならない。
 だから、強がりではない本当の意味でのプライドがあって、プラグマティックに物事を解決したいなら、大事なのは「僕は傷ついている」という事実を認める強さを持つことが大事だと僕は思う。

 そして、もし自分が打ちのめされていることを認められたら、そのことを人に話すといい。でも、ここでまた、ひとつのハードルがある。それは自分にストレスをかけている正体、その中心に一体何があるのかっていうことをつきとめて、言語化するのが難しい場合がある、というハードルだ。
 自分がつらいのは、このせいなんだ、とはっきり分かる時は、それでいい。けど、物事はいつもクッキリハッキリしている訳じゃない。自分が辛いと感じる原因が、本当は何なのか、自分でもよく分からないってことは、時々ある。すると、聞き手に対して、一体何が辛いのか、なぜ傷ついているのかを話せない。で、つらいと感じているのに、誰にも何も話せずに終わってしまう。

 でも、もしつらいと感じているなら、「よーわからんけど、僕はしんどいのだ」と言ってみるといいと思う。
 医療の世界には「不定愁訴」という言葉があって、何がって特定できないのだけど何となくしんどい、みたいな訴えのことなのだそうだ。「なんか知らんけど、頭痛い」とか。僕の慢性疲労症候群なんて、まさに不定愁訴だろう。だけど、そんな訴えでもとりあってくれるドクターに僕は出会って、治療を続けてくれている。そういう人もいるのだ。だから、とりあえず口に出して言ってみる、というのは悪いことではない。原因だとか理由だとかは、後から分かれば、その時に言えばいいのだ。
 まあ、あまりしょっちゅう「しんどい、しんどい」と言っていると、「やかましいんじゃ」と叱られることもある(僕は時々妻に叱られている)。けどいいじゃん、叱ってくれるくらいの方が、こっちも気楽でいられるでしょ? 

 しかし、おかげで僕はもうすっかり普通の生活に戻っている。資格の一件は、その瞬間にはとにかく業腹だったけど、冷静になったおかげで仏教的認識論に立ち返ることができ、苦は遠ざけることができた。あまり好きではない仏教だが、方法論としては有効な場合も多いことは認めているつもりだ。伝統的ストレスコーピングメソッド。古代インド式認知行動療法。煩悩の業火からは距離をとるに限る。
 僕の場合、その入り口は、身近にいる人に愚痴ることだった。愚痴、いいじゃん。期間と時間と相手を限定して愚痴ってさ、その後はすっきりした気分でオトナに戻る。そういうのって、必要なことじゃない?