笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

次に星を継ぐものは、もうない。

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 【ミネルヴァはもはや背景の空と見分けもつかない黒い煙の塊にすぎない。二つの赤点は繋がって、赤道を跨いで長く帯状に伸びている。何百マイルもの長さであろう。もう一つ別の赤い筋が北に向かってどんどん伸びている。ときおりその一部が煙の中で橙色に輝き、数時間燃えてはおさまっている。何もかも焼きつくされたことだろう。】

 

「星を継ぐもの」 ジェイムス・P・ホーガン 池央耿(訳) 創元SF文庫

 

 20世紀は戦争の世紀だった。
 もちろん、19世紀も戦争の世紀だったし、18世紀も17世紀もそうだっし、それ以前も。人類はその歴史開闢以来、争い続けている。しかし、20世紀の戦争がそれまでと違うのは、「戦争によって人類がついに滅びるのではないか?」という恐怖があったことだ。
 その恐怖は、科学技術の発達のもたらしたものだった。急速に発達した科学技術を駆使した兵器は、旧知の兵器とは比べものにならないほどの破壊力をもち、人間を効率的に傷つけ、環境を徹底的に破壊する。
 だからこそ、「ちょっと戦争はやめてみませんか?」という合意が必要だったのであり、その合意が一応は形成できたために、二十世紀後半から今日まで、局地的な紛争やテロリズムを除いては、大国同士の直接戦闘は行われずになんとかやってきた。

 その合意が、どうやら破られようとしているように感じる。報道を見ていると、ウクライナを平衡点とした緊張は、ここ数日、極限まで高まっているようだ。そして、その両極にいるのは、世界を牛耳る両大国であり、もはや、平和主義のペルソナをかなぐりすてて牙を剥きあう巨獣と化しているような気がしてならない。
 このことは、当然、アジアにとっても対岸の火事ではない。前世紀の大戦だって、東西両戦線が発生した。西が燃えれば、東も燃えるのだ。台湾はすでに今感じている危機感をあらわにしている。この火事は、オリンピックでのメダル争いなどという形では決着しないに違いない。パラリンピックがちゃんと開催されるといいのだけど。

 20世紀のSFはさかんに、ディストピアと化した世界を描いた。世界が燃え尽きるのではないかという恐怖が熾火となってくすぶっていた時代、そのディストピアは望ましくないが真実味を帯びた予感だったのだろう。作家たちは、その予感を未来の事実としないためにそのディストピアを描いたのであり、決して未来をその方へ導くためではなかったはずだ。なのに、今僕たちが直面している世界は、どうだ。まるで消え失せた惑星ミネルヴァのようではないか。

 どうか世界を燃やさないでほしい。僕たちに惑星ミネルヴァは、もうない。