笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

青空練習


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 気候のいい季節には、青空に向かって楽器を吹きたくなる。
 まだ人影まばらな早朝に、車で人工島や海沿いの公園に出かけていく。そして、誰かの迷惑にならなさそうな場所を選んで楽器を用意し、小一時間練習する。スケールでウォームアップしてから、取組中の曲の難所をさらったり、iRealの伴奏でブルースを吹いたりする。気持ちがいい。
 今年も緊急事態宣言のせいで、どこにも行けないゴールデンウィークだった。そんなときは、青空練習がいい気晴らしになる。休暇中は毎朝出かけた。子どもがいると楽器の練習なんて全然できないものだけど、人の集まるところに出かけられないっていうシバリのおかげで、練習三昧の連休だった。
 青空練習の場所は、そもそも人通りのない場所を選ぶし、早朝でもあるので、練習の音を人に聞かれることはほとんどない。時々、釣り竿を背負ったスクーターやトレーニング中のロードレーサーがやってくるけど、僕のことを気にかける様子はない。みんな、そ知らぬ顔ですーっと遠ざかっていく。お互いに邪魔をしないのがここのマナーだ。

 でもある朝、一台の軽自動車が僕の車の10メートル向こうに止まり、ドライバーが降りた。そしてそのドライバーがこっちの方に向かってゆっくり歩いてきて「おはようございます」と僕に挨拶した。
 初老の男性だった。僕より一回り年上だろう。挨拶をされたら挨拶を返すのが礼儀だ。僕も「おはようございます」と返事をする。ちょっと緊張した。うるさいって怒られるのかな? と少し怯えた。でもそうじゃなかった。男性は「僕もフルートを始めたんです」と言ってクリアファイルにはさんだコピー用紙を僕に見せた。それはフルートの運指表だった。
 その男性はクラシック音楽が好きで、コンサートやライブに足を運んでいるうちに自分でも楽器を演奏してみたくなってフルートを始めたのだそうだ。しかし、楽器を手に入れて練習を始めてみたものの、全然上達しないのだという。で、悩んでいたらフルートの練習をしている僕を見かけ、どうやったら上達するのか尋ねてみたくなったのだそうだ。
「うまくならないんですよ。曲なんて全然ふけないし。どんな練習をしたら上達しますか?」
 男性がどんな練習をどれくらい続けていらっしゃるのか分からなかったが、「とにかくロングトーンとスケールです」と僕はアドバイスしてみた。男性はロングトーンとスケールの意味を知らなかった。僕は、中学生がやるようなロングトーンとスケールの練習をやって見せた。男性は、へえ、という顔をした。
 ソーシャルディスタンスをたもったまま20分ぐらい、楽器のことで雑談をした。自分の生活と何のつながりもない他人と話をするのは久しぶりだった。何だか楽しかった。コロナの前には居酒屋なんかに行くと時々お隣に座った人と話をすることもあったけど、パンデミック以来そういう意図せぬ出会いとは無縁だったから。
 ひとしきり話した後男性は帰ろうと背中を見せながら、「邪魔してすみませんでした」と頭を下げた。僕は、「ご縁があったらまた会いましょう」と返事した。男性は笑った。また会うことがあるのかどうかは分からない。会えないことの方が圧倒的に多いけど、会えたらいいなと思う。きっと男性の方でも、そう思っているんじゃないかな。そんな気がする。

 コロナは色々なものを世界から奪った。こういう小さな出会いも、きっと世界中で激減しているのだろう。ちくしょう、コロナめ。でもこの日僕は、ちょっとコロナに仕返ししてやれた気がした。
 それから僕は、さらい足りなかったところをもう少しだけ練習して帰宅した。男性と会った場所にはそれからも時々楽器を吹きに行っている。でもまだ彼には出会わない。いつかまた出会うことがあるだろうか。それとも別の出会いがあるだろうか。