笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

「横浜駅」 東洋のサクラダ・ファミリア


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 行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし。
 
方丈記」 鴨長明/武田友宏(編) 角川文庫
 
 妻は、子どもの休みに会わせて年に数回、東京の実家に帰省する。僕は仕事があるので、一緒には発たないのだけど、そのたびに世話になる義父母へのお礼を言うために、家族が神戸に戻る前日に上京し、家族をつれて神戸に戻るのが習慣になっている。
 だから僕は年に二三度、上京する。僕は二十代を中心に十年以上横浜で暮らしたから、東京と横浜は僕にとって第二の故郷みたいなものだ。上京すると、首都圏の美術館をまわったり懐かしい場所を訪ねたり、予定があえば古い仲間と会うこともある。
 とはいえ、たった一泊の上京で、泊まりは義父母の家と決まっているから、そのスケジュールの中で予定をあわせて人と会うのはとても難しい。せっかく連絡をとってみても、相手にすでに用事が決まっていて会えないことの方が多いし、度々「会おうよ」と催促して煩がらせるのも申し訳ないことだ。だから近頃は、あまり積極的に連絡をとろうとすることもしなくなってしまった。
 けれど今年の末は、嬉しいことに、大学時代のオーケストラサークルの仲間から僕の方に連絡をくれて、久しぶりに会えることになった。いや、本当は毎年年末には連絡をもらっていて、それはフルートパートの忘年会なのだが、いつも僕が上京するタイミングとはその日程がずれるので僕が不義理をしていたのだけど。僕の上京と音楽仲間の都合が一致する可能性は三六五分の一。今年僕は、当たりくじをひいたようだった。

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 やった、今年は古い仲間に会える。そんな風に思いながら上京の前夜を神戸で過ごしていた僕の携帯に、もう一件、横浜からメッセージが届いた。それは、大学時代のホルン奏者の先輩で、僕が仲良くしてもらっていた女性だった。松本さんという方で、同じ大学出身のオケ仲間からは、まっちゃんとか、ホルン吹きだからまっぽさんとか呼ばれていた。彼女は先輩なので僕は松本さんと呼んでいるけれど、このブログでは親しみをこめて、まっぽさんと書かせてもらおう。そのまっぽさんがどこかで僕が上京する話を聞いたらしく、わざわざ連絡をくれたのだ。メッセージをやりとりしているうちに、群馬出身のまっぽさんも僕が上京する日に地元に帰省するのだけど、昼頃までは横浜にいるということが分かった。じゃあ会ってメシでも食いましょうということになるのは自然な流れだった。
 まっぽさんは、アレキサンダーというホルンを吹いている。アレキサンダーというのはホルンメーカーで、ホルン吹きはアレキと略して呼ぶのが普通だ。このアレキサンダーという楽器はちょっと特別で、僕はアレキの音色が特別に好きなのだけど、それはきっとまっぽさんの影響だ。現代的な響きではなく、ちょっとスモーキーで木管楽器的な音色でアレキは歌う。目を閉じて響きに身を委ねると、ドイツの真っ黒い森がまぶたの裏に見える気がする。まっぽさんのアレキはベルカットだが、ワンピースのアレキなんか、見た目は金色だけどほんとうに木でできているんじゃないかと思う。
 まっぽさんとはよくアンサンブルをした。僕はフルート吹きだから、まっぽさんとするアンサンブルと言えば、木管五重奏である。足りないメンバーは先輩後輩かまわずまきこんで、オケの練習後には深夜まで居残って遊んでいた。早く帰りたがっている仲間を誘って迷惑がられることもあったが、アンサンブルを始めてしまえばみんな楽しそうだったから僕とまっぽさんはあまり気にしなかった。まっぽさんは僕の先輩だったけど、研究生や修士課程でずっと大学にいたので、僕が大学を卒業するまで、僕はずっとまっぽさんとは親しくしていた。楽しかった。
 大学オケの練習は七時ぐらいで終わり、一〇時半には練習場所が消灯する。消灯すると、非常灯だけしか使えないのだが、僕たちはそうなってもずっと楽器を吹いていた。そして日付が変わってもまだ吹いていて、そうするとたまに警備員がやってきて「もうやめなさい」と注意する。それで、僕たちはやっと楽器をケースにしまう。あの頃はとにかくよく吹いた。吹き終わってから、大学近くのガストに入って、一番安いメニューで食事をする。非常灯だけの練習場所は暗かったがガストの店内は明るく、するとまっぽさんの唇には楽器を吹きすぎたためにマウスピースの後がくっきり残ってるのが見えるのだった。ぱっぽさんのアパチュアはセンターからすこし横にずれている。唇の斜め上の位置にずれてついたスタンプみたいな赤い円の跡は、食事が終わっても消えなかった。

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 僕とまっぽさんは、横浜駅で待ち合わせをした。僕は新横浜で新幹線を降り、横浜線京浜東北線を乗り継いで横浜駅へ向かった。
 僕が横浜を離れてもう十年近くたつ。横浜駅はすっかり様変わりしていた。
 僕が初めて横浜に住み始めた二十数年前、横浜駅はすでに再開発の真っ最中だったが、その工事は今でも続いていた。その、工事中であるという状況だけは変わりなくて、工事中であるがために、横浜駅は継続的に変容を続け、今ではすっかり昔の面影を失っている。僕が横浜に住むようになったころ「これ、新しくなったんだよ」と大学の先輩に紹介されたCIALという商業ビルは改築され、オープン目前ではあるが今は利用できない。ダイヤモンド地下街はすっかり店が入れ替わって、若い頃に使った店は移転している。東急東横線なんて地下化されて、どこにあるのかさえもう僕には分からなかった。駅コンコースはずっと工事中。昔は白熱灯か何かでぼんやりと照明されていたけれど、その光源はどうもLED灯に変わったようで、やけにシャープな明るさだ。
 あったはずのものがなくて、なかったものができている。ここに住んでいた頃には目をつぶってでも歩けた横浜駅の中で、僕はあやうく迷子になるところだった。まっぽさんとの約束までかなり時間があったので、僕は横浜駅近辺を二時間近く歩き回り、「ああそういえば、ここのエスカレーターの構造にはなんか見覚えがある」とか「このトイレの位置は昔と変わっていない」とか考えながら、少しずつ、自分の記憶の中の横浜駅と現在の横浜駅の地図をすりあわせていった。駅コンコースを中心に直径一キロほどのエリアを探索するという作業に、僕は飽きなかった。そし、新しい発見を重ねるたびに、喜びを感じると同時に、ここはもう僕の知っていた横浜駅ではないという寂しさに打ちのめされた。
 まっぽさんと相鉄の横浜駅西口で合流し、ちょっと興奮気味にその話をすると、
横浜駅は、東洋のサクラダ・ファミリアだなんて言われてるからね」
と、まっぽさんは笑った。

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 横浜駅をじっくり歩くのが十年ぶりなら、まっぽさんと会うのも十年、いや、それ以上ぶりだった。
 でも、まっぽさんは全然変わっていなかった。相鉄の改札口から出てくるまっぽさんを、僕は一瞬で見つけられた。僕に気づいてもらえるように手を振りながら近づいていくと、まっぽさんははにかんだような、ちょっと渋い笑顔を浮かべた。その笑顔が昔のままで、僕は嬉しかった。まっぽさん、全然変わってないな。再会の喜びを伝えるために握手をすると、細い骨張ったまっぽさんの手の手触りがなつかしかった。僕は一気に二十年の時間が巻き戻される気がした。
 年末の横浜駅は混雑していた。僕とまっぽさんは東口まで移動し、スカイビルのレストランに入った。スカイビルは昔のままだった。スカイビルは仕事の納め会だとか大学の謝恩会で時々使った場所だった。僕が若かった頃、まだ出来て間もなかったビルだと思うから、かえって変わらなかったなのかもしれない。まっぽさんも「ここは変わらないねえ」なんて笑った。中華レストランが割と空いていたので、僕たちはそこに落ち着いた。
 まっぽさんは、ずっと横浜に住んでいる。横浜のどこに住んでいるのかと訪ねたら、学生時代と同じだという応えがかえってきた。
 まっぽさんは今でもホルンを吹いているようだった。学生の頃から出入りしている社会人アマオケで今でも吹いている。それだけではなくて、学生時代に一緒に演奏していた近い世代の奏者と一緒に木管五重奏のチームを組んで、定期的にコンサートを開いているらしかった。
「全然、変わってないんですね」
 僕がそう言うと、まっぽさんは「そうかもしれない」と苦く笑う。まっぽさんは、神戸に引っ越した僕の方ではすっかり連絡の途絶えてしまった共通の知り合いの近況を教えてくれた。あの人は結婚したよ、とか、この人は転勤でどこに入ったよ、とか。結婚した知り合いは、僕たちが学生時代によくアンサンブルに誘ったクラリネット奏者だった。その披露宴に参加したまっぽさんは、タブレットでその時の写真を見せてくれた。花嫁姿の知人の脇に、僕の知っている顔がいくつも並んでいて、そこからまた近況報告と昔話の花が咲いた。
 僕たちは一時間ほど話した。少し話し足りない気はしたけど、これから帰省するのだというまっぽさんをあまり引き留めるのも悪くて、遅くなり過ぎないうちに別れることにした。スカイビルを出て駅の改札まで来ると、先輩のまっぽさんを見送ってから次の行き先を考えようと思っていた僕にまっぽさんが言った。
「おみやげ買ったりするからさ、さきに電車乗ってよ」
 学生時代、オーケストラの練習が終わった後、僕とまっぽさんはアパートの方向が同じだったから、よく一緒に帰った。僕のアパートの方が、少し大学に近かったから、僕は先輩のまっぽさんの背中を見送るのが常だった。僕の方が見送られるのは変な気分だった。

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 駅のコンコースは、二十年前と変わらず工事が続いていて、幕を張った天井から工事のための無骨な灯火がつり下がっている。その青白い照明のせいか、僕は突然、ずいぶん遠いところにきたんじゃないかという気持ちになった。僕を見るまっぽさんの笑顔が、やけにシャープで明るい。そのせいで、まっぽさんがまるで別人のように見える。今はもうあの時ではなくて、今は今なのだと、念押しをするような、シャープな明るさ。僕は急に不安になって、まっぽさんとの別れ際に、もう一度握手を求めた。まっぽさんの手は、さっき握った時と同じように、二十年前に握った時と同じように、やっぱり細くて骨張っていたけど、その変化のなさが、かえって不自然なような感じが今度はした。
 時が流れれば、すべては変わる。変わらないことを期待する方が無責任で無粋なのかもしれない。でも、百あるうちのひとつだけでもいい、何かを思い出す手がかりになるものが残っていれば、それはきっと慰めになる。僕はさっき握ったまっぽさんの手の握り心地を忘れないように自分の手をポケットの中で暖めながら、まだ行き先も決まらないのに、改札に逃げ込んだ。
 神戸に戻ってから、学生時代のアルバムを開いた。写ルンですで撮った、まっぽさんと僕と、あと数人の写真。無邪気に笑う二十年前の僕たちは、いやに若くて、僕は苦い気持ちになった。

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