笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

「三宮」 日常、そして始点

 

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けれどもこれら新生代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わずか一点にも均しい明暗のうちに
 (あるいは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や性質を変じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変わらないと感ずることは
傾向としてありえます
 
「詩集『春と修羅』序」 宮沢賢治 新潮文庫
 
 
 三宮は神戸最大の繁華街だ。駅の北側には歓楽街、南側には中規模店が軒を連ねるアーケード、東はデパートと大型ファッションビルがたち並び、西は旧居留地南京町が元町のあたりまで広がっている。神戸っ子が近場で集まろうと話せば、待ち合わせはたいてい、三宮だ。三宮に来れば、食事だろうがカラオケだろうがショッピングだろうが、一通りのことができる。だから、神戸っ子にとって三宮とは、生活圏の一部だ。
 
 僕も、中学生ぐらいの頃から三宮には親しんだ。僕は本の虫で、地元の駅の高架下にあるマッチ箱みたいな本屋に満足できなくなると、三宮にある大型店舗の本屋に通うようになった。ジュンク堂は今でもよく行くし、僕が高校生の頃にはまだあった駸々堂にも入り浸った。本屋の帰りには喫茶店でコーヒーを飲んだり、ナガサワ文具に立ち寄って学校で使う文房具を買ったりしたものだ。
 駸々堂はとっくに撤退して、もうない。なじみだった喫茶店も、いつの間にかなくなってしまった。センター街にあったナガサワ文具店は、震災の後、場所を変えて営業している。
 

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 都市とは、ゆるやかに変化しつづける空間だ。気がつくと古いものがなくなって、新しいものにアップデートされている。同じ場所で暮らし続けていると、だんだん変化に鈍感になり、以前はそこになにがあったのか、どんな風景だったのか、思い出せなくなってしまう。例えば、通勤途中の道にある取り壊し中のビルを見て、そのビルが建っていた頃には、そこに入っていたテナントやビルそのものの外観だって当たり前に思っていたはずなのに、いったんブルーシートに覆われてしまうと、表にどんな看板がかかっていたかも、何階建てのビルだったかも、もう分からない。そして新しいビルが建ってしまう頃には、以前に建っていたビルのことのことなんて、すっかり忘れている。
 

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 だからといって、すべてを忘れてしまうわけでもない。
 僕は、勉強が苦手で、大学受験に一度失敗した。親が、もう一度やってみろ、と言うので、一浪して別の大学を目指すことにした。幸か不幸か、高校時代に仲の良かった友だちの数人も、僕と同じように浪人していて、僕たちは三宮の生田ロードにあった喫茶店に集まり、午前いっぱいそこで勉強するのが習慣だった。暇な店で、朝のうちは僕たちしか客がいなかったから居心地もよく、僕たちは予備校に行かない日も毎日通い詰め、コーヒーを飲んで雑談し、少し勉強もした。僕たちは部活仲間でもあったので、そこを「部室」と呼んでいた。僕たちは「部室」を愛していた。何せ、一年間、ほとんど休まず通い詰めたのだ。浪人の一年間で「部室」に行かなかったのは、本当に、受験日だけだったんじゃないだろうか。
 その「部室」で勉強したおかげで、僕たちは全員、浪人生活を一年でストップし、晴れて大学生となり、それぞれに神戸を離れて学生生活を始めた。僕は横浜に旅だった。そして、「部室」と僕たちが呼んだその喫茶店は、僕たちの知らぬ間にひっそりと暖簾をおろし、僕が帰省した折に前を通りがかると、無味乾燥な携帯ショップになっていた。
 多分、僕たちでなければ、生田ロードにあったその「部室」の前を通ってもそこに、本当はジラフという名前の喫茶店があったことなど、誰も思い出しはしないだろう。間口の狭い、少し奥まった入り口の目立たない、チェーン店の喫茶店だった。でも、僕は、そこを通るたびに思い出す。そして、ちらとそちらを見て、心がことりと動くのを感じる。もうそこに僕たちの「部室」はないけど、でもそこには確かに「部室」と僕たちが名付けて通った喫茶店があって、その記憶は日常の喧騒の奥に、深く、深く、たたみこまれている。
 

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