笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

学校

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 べつに遠い雲の下でなくてもよい。この学校の外であればどこでもいい。この教室の外であればどこでもいい。身体が不自由に拘束されているのなら、せめて精神だけでも飛び回りたい。
 ・・・
 できるだけ遠くへ。
 まさにそれが、その頃の僕の日々の生活の願いだったわけだ。
 
「旅々オートバイ」 素樹文生 新潮文庫
 
 ここではないどこかへ行きたい・・・どこへ行きたいどいうのではない、ただ、ここにはいたくない。アドレッセンス期の僕たちを支配していたこの衝動は、いったい何だったのだろう。僕はいまだにその正体を知らず、しかも、思春期を遠く離れて人生を折り返す年齢にさしかかった今も、時々、中高校生の時と同じように、強い衝動におそわれることがある。
 所詮、逃避願望にすぎないと、今ではそう自分を慰めることができる。けど、若かった頃、その願いは切実だった。僕は家も学校も嫌いだったから、なおさらだった。
 僕は実家から片道一時間半かかる中高一貫の私立校の通っていた。自分で望んだ中学受験ではなかった。できれば公立の中学、公立の高校に行きたいと、はっきり望んでいた。けど、他に選択肢はなかったのだ。親がそうしろと言えば、子どもの望みなんて駄菓子のおまけの玩具みたいなもので、現実には何の役にも立ちはしない。
 その頃の地元の公立の中学校はちょっと荒れている時期だったからとか、その頃の親世代としては少しでもいい大学に進学した方がいいとまだ信じてからとか、そういう親の想いも今では分からないでもないが、とにかく僕の、幼いなりにも真剣な願いは踏みにじられた格好だった。相手にさえしてもらえなかった。中学生高校生の間、僕は家族と何か大事な話をしたという記憶がない。もっとも近いはずの存在は、僕にとってもっとも疎遠な存在でもあった。
 そして、僕の放り込まれたその私立の学校で生徒に求められるものは、学業の成績がすべてだった。勉強を好きでも得意でもない僕は、学校では劣等生だった。教師たちにとって僕は、教室の隅のホコリと大差なかっただろう。目立たなければ放っておけばいいし、目障りなようなら掃いて捨てるだけだ。僕は中高の六年間を、ぎゅうぎゅうの満員電車の息苦しさに耐えて通勤するサラリーマンのように、ただ静かに耐えて、やり過ごした。
 

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 ぺしゃんこにつぶれた自尊心を抱えた僕が、自分らしくいられる時間は、教師が関心を示さない部活に打ち込むときと、大人の干渉をうけない通学のための片道一時間半の電車に乗っているときだけだった。
 電車の中では、僕はイヤホンで音楽を聴きながら本を読んだ。読み疲れると、眠るか、車窓を眺めた。窓は好きだった。ガラス窓一枚へだてた向こうの風景が、次々と入れ替わっていくのは見ていて飽きない。窓は憧れを写すスクリーンだった。いつか、僕が好きに振る舞える自由を手に入れたら、途中下車してあの砂浜や田園風景の中を思う存分歩くのだと、そんな風に考えながら、ひんやりと冷たい手触りの窓に額を押しつけていた。教室でもよくそうしていたように。
 息苦しい神戸から逃げ出すように、僕は横浜の大学に転がり込んだ。まず車の免許を取って、原付を買った。それでバイクに乗る楽しさを覚えた。すぐにバイクの免許を取りなおし、中古の四〇〇ccを乗り回すようになって、卒業までにタイヤを二度変えた。休みがあれば、その期間の間に行ける一番遠いところへ行った。電車の窓はヘルメットのバイザーになって、僕はバブルジェット型に膨らんだ窓に、色とりどりの風景を映した。

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 いろいろな場所に行って、いろいろな風景に出会った。しかし、僕は時々考え込んでしまう。どこへ行ってどんな風景に出会えば、僕は満足するだろうか。僕はまだ、旅をやめてもいいと思えるような風景には出会わない。まっすぐ投げ上げたボールがまっすぐ落ちてくるように、僕は旅に出て、また出発地点に戻る。それを、小さな子どものように、飽きもせず繰り返す。
 ここではないどこかとは、一体どこにあるのか、僕はまだ知らない。
 

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