笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

旅ってなんだっけ。

f:id:sekimogura:20191207212644j:plain

 

 途中のどこかで女たちに、未来に、あらゆるものに会える、と分かっていた。途中のどこかできっと真珠がぼくに手渡される、とも。


オン・ザ・ロードジャック・ケルアック 青山南(訳) 河出文庫 

 旅は楽しい。
 時に、何ともしようのないトラブルのために途方に暮れることもあるし、帰ってきて疲労感しか残らないこともある。それでも、出発前の高揚感や、行程をひとつひとつこなしていく達成感は何物にもかえがたい。日常から遠ざかった土地の、風の肌触り、日差しの香り、音の味わいに僕は喜ぶ。
 大切なのは、日常からの遠さ。そして旅は、日常を離れた僕の心象の中にだけあると、僕は思う。だから、遠さとは必ずしも物理的な距離だけを意味しない。肝心なのは、心がどれだけ「いまここ」から離れられるかだ。
 

f:id:sekimogura:20191207212950j:plain

 

 僕は幼稚園の時、初めての旅をした。

 僕の通っていた幼稚園は、僕の実家からほんの三〇〇メートルもないような近所にあった。大人の足で二分、幼稚園児のトコトコ歩きだって一〇分はかからない。一方通行が交差する小さな交差点をひとつ曲がるだけの、単純な道だ。交差点の内側の角には小さなガソリンスタンドがあり、その向かいには銭湯と文化住宅があって、錆びたマルフクの看板と政治家のポスターが貼り付けられていたのを覚えている。その交差点に立つと、目を細めるまでもなく、一方には僕の家が見え、もう一方には幼稚園の園庭を囲む緑のフェンスが見えた。
 僕は毎朝、母に手を引かれてその幼稚園に行き、幼稚園の門で母に迎えられて帰った。通園の時に見る町の風景は、もう僕にとっては空気みたいなもので、あってもなくてもいいようなものだった。日常の風景というのは、きっと誰にとってもそんなものだろう。母とつないだ手の汗ばんだ感触にちょっとうんざりしながら、僕は感動もなく、毎日その道を通った。時々、幼稚園がもっと遠ければいいのにとか、ガソリンスタンドが駄菓子屋さんだったら楽しいのに、なんて思った。
 
 年長になったある初夏の午後のことを、僕は今でも忘れない。その日、僕が毎日通う道の風景が一変した。すべてが輝いて見えた。僕の心が躍った。
 年長の近所の子どもにだけ、特別にゆるされる「ひとり帰り」というのがあって、つまり親の迎えがなくても、幼稚園から自分の家まで、子どもだけで帰ってよろしい、というシステムだった。僕はこれがやりたくて仕方なくて、母に頼み込んで「ひとり帰り」をさせてもらった。別に特別な意図があったわけではなくて、そこにボタンがあればとにかく押してみたい子供心からにすぎなかった。僕たちは、いつも通りのお迎えで帰宅する子どもとは別に集められ、門のところで先生に挨拶をし、道に出た。
 その瞬間、不思議な事が起こった。いつもはくすんだ緑色の錆びた園庭のフェンスが、鮮やかなエメラルドグリーンに輝いていたのだ。フェンスだけではない。空は澄み切って高いし、アスファルトは今まで嗅いだこともないような匂いを放っている。マルフクの看板は風に揺れながら笑っていて、ガソリンスタンドの給油機はぐわんぐわん鳴っている。そして、日差しの当たったところは目も眩まんばかりに明るくて、建物の隙間の暗がりは無限に深かった。
 僕はどきどきしながら、いつものようでないいつもの道を家に向かって歩いた。角を曲がると自分の家が見えて、家の前の道のところで母が立って僕を待っていた。僕がゆっくりと母のところまで歩いて行くと、母は訝しそうな声で僕に言った。
「あんた、何ニヤニヤ笑ってるの?」
 翌日はいつも通りのお迎えで先生は母との立ち話で前日の僕の様子を「楽しそうに笑いながら帰って行きましたよ」と報告していた。つまり、僕はひとり帰りの道中、ずっと笑いっぱなしだったのだ。
 僕はこのとき、大変な冒険をしたのだと自分で信じていた。いつも母に守られ、常に付き添われていた自分が、母の手から離れて歩く。歩いたのはいつもの町の路地に過ぎない。けれど、ひとり帰りの日に僕が見たいつもの道は、いつもの道ではなかった。それは短いながらも、旅路であった。それまでの人生で到達したどんな場所よりも遠く、孤独で、危険に満ちた場所を僕は歩いた。そしてその経験は、その日から今日までの数十年の間に僕が経験したどんな旅よりも楽しく、そして今後行くであろうどんな旅よりも魅力に満ちたものだったと僕は確信している。
 
 

f:id:sekimogura:20191207213428j:plain

 
 世界は言葉でできていて、言葉はいつも二項対立だ。悪がなければ善もない。影がなければ光もない。同じように、日常がなければ非日常もまたない。旅とは非日常のひとつであり、従って、日常がなければ旅はなく、旅がなければ日常も輝かない。だから、僕は旅だけをしているわけにはいかないけれど、時々は旅の空に遊ぶ。そうすれば、世界はまた輝く。
 
 

f:id:sekimogura:20191207213153j:plain