笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

「須磨寺」

f:id:sekimogura:20191223211247j:plain

 


 あはれ、弓矢とる身ほど口惜かりけるものはなし。武芸の家に生れずは、何とてかかる憂き目をば見るべき。なさけなうも討ちたてまつるものかな。
 
新日本古典文学大系 平家物語 下 梶原正明・山下宏明(校注) 岩波書店

 

 須磨海岸にはよく行くくせに、須磨寺には寄ったことがない。一説には千年以上の歴史を誇る名刹だ。須磨寺の裏にある須磨寺公園を春先に訪れると梅が見事だと知り合いに聞いたことがある。桜もきれいらしいけど、その人が言うには、梅。その昔、倭の国で花といえば桜ではなく梅だったのだ。古風でいいじゃないか。梅の季節ではないが、訪ねてみることにした。
 

f:id:sekimogura:20191223210850j:plain

 
 千守の交差点の少し手前から坂を上り始める。山陽電車の高架のすぐ脇にお社があった。歴史ある街には、こうした小さなお社が街の角々にいくつもある。キリスト教系の幼稚園の裏を通って坂をあがった。道を挟んでお向かいは大きなお寺。異なる信仰をもつ者同士が、その差異を認めつつ同居できるのは素晴らしいことだ。
 和して同ぜず。和をもって尊しとなす。須磨はいい街だ。和の心が生きている。
 やがて、五叉路にさしかかり、その奥に山門が見えた。山門の反対側は商店街。かつては門前町だったのかもしれない。山門側はさらに道が分岐していて、網目状の複雑な道からも、街の歴史がうかがえる。山門の手前には、アジア各地の石像を安置した一角があり、密教風のマニ車を備えたストゥーパヒンドゥーの神々のレリーフが安置されていた。まるで仏教が大陸を渡って日域に至るまでの歴史を見るようだ。
 一礼して山門をくぐると、お堂や手水が左右に配された参道では、屋台の設置が始まっていた。大晦日から新年にかけては大勢の参拝客が訪れるのかも知れない。境内には鳥居もある。明治以前の古風が残っているのだ。
 

f:id:sekimogura:20191223210930j:plain

 正面に進んで階段を上ると、大きなお堂がある。その脇には真新しい八角堂。参拝客にまじって、ターメリックイエローの法衣に身を包んだ僧侶が静々と歩き、お堂からは読経の声も聞こえる。紅葉の季節はとうに過ぎているのに、境内を潤す細い流れには赤子の手のような葉が散っていた。しかし、唐紅に染まったこの流れも間もなく、また澄み渡るのだろう。須磨の海が春霞に煙る頃には、鮮やかな薄紅色に染まるのかもしれない。
 

f:id:sekimogura:20191223211042j:plain

 境内には、本堂をはじめとする主要な建造物を取り囲むように、地蔵尊が配されている。あそこにも、ここにもお地蔵様。ある者は列をなし、ある者は山をなす。群れなさず屹と背筋をただしている者もある。その一体一体のご尊顔が全部違うのが面白い。まるで人間のようだ。
 境内を奥へと進むと、地蔵の列のの境目なく、石仏は五輪塔や墓石へと変わっていく。その曖昧な境界線の途中には、由来書きのある地蔵があり、どこの何某が何のために祀ったのかが紹介されている。それを読んでいて、僕ははっとした。地蔵も五輪塔も墓石も、ただの石塊ではない。この下には、かつて生きていた誰かが埋まっていて、その何某かを弔うためにこの石の祈念碑や像がここに並んでいるのだと。
 須磨寺には、平敦盛首塚がある。若干十七歳で熊谷直実に討たれた若武者だ。首塚奥の院へ続く道の途中に、鮮やかな紅葉に包まれて静かに立っていた。
 僕の心は、年齢的にも立場的にも、若駒である敦盛よりは、古兵の直実の方に寄り添っていく。武家に生まれた業、殺生を生業とする生き様の苦さ、ましてや我が子ほどの年頃の討たねばならぬ直実の葛藤たるや、いかほどのものだっただろう。我への呵責、時代への恨みははかり知れないに違いない。後に直実は出家する。そうしなければもはや生きておれぬほどの苦しみを背負いながら、なおも生きる重荷に耐えきる事が、直実なりの弔いだったのではないか。僕には、首塚五輪塔を飾る紅葉が直実の心ばえのように思えた。
 

f:id:sekimogura:20191223211127j:plain

 首塚から、往路とは違うルートで山を下る。枯山水庭園のような風情の一角に、浜で対峙する敦盛と直実の銅像が立っていた。その脇を通る時、ふと視線を感じて振り向くと、なんとも剽軽な顔をしたカエルの像が僕の背中を見ているじゃないか。
「なんだこれ?」
 思わず笑ってしまった。立て札には「ぶじかえる」と紹介されている。可動部分をまわすと、なにかしらの御利益があるらしい。千数百年の歴史の重みはどこへやら、どこまで本気なのかわからないカエルの御利益に、僕は気抜けしてしまう。カエルの足下あたりには大きな亀の像もあって、その背には乗ることができるようだ。なんだか動物園の片隅にあるアトラクションのようで、まったく緊張感がない。
 しかし、案外と違和感は感じない。小径をはさんであちらには対峙する敦盛と直実。こちらにはカエルと亀。その両極が、調和のうちに平衡している。なんだか不思議な気分だった。
 

f:id:sekimogura:20191223211209j:plain

 生と死、絶望と希望、過去と現在。正反対のものが一枚の紙の表と裏のように、分かちがたく存在している。あまりにもかけ離れたものとは、かえってそういうものかもしれない。カエルの目玉をくるっとまわしてみた。目玉は、ただ回っただけだった。